~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-05)
社からKホテルは近い。だが、そこだけですみそうになかったので、添田は自動車を使った。
Kホテルの支配人は山川やまかわ氏と言ったが、初老の紳士だった。Aの紹介名刺が効いたのか、すぐに会ってくれた。
「宿泊人名簿をお見せするのは、大変困るのです」
支配人はおだやかに切り出した。
「やはり、これは、お客さまの秘密ですからね。われわれとしても、職業上の秘密を第三者の方にお見せするわけにはいかないのです」
支配人はそれでも好意的な口調だった。
「それも、どういう名前の人が泊まっていたかとお訊ねになれば別ですが、全部リストをお目見かけるというのは、どうでしょうか?」
添田としても、これは無理な頼みだということは、十分わかっていた。ただ支配人の好意をたのむ以外にない。
「その外国から来た日本人の名前は判りません。その人の年齢は六十歳くらいの人です。そういうお客様はこの期間に泊まりませんでしたか?」
「ははあ、すると、それは米国から来た人ですか?」
「いや、そうとは限りません。イギリスからかも知れないし、ベルギーkら来たかも分からないし、それはこっちには不明なのです」
「なるほど、六十歳くらいの日本人で、外国から来た人ですね?」
支配人は指先で机をこつこつと叩いた。
「家族は?」
お訊き返した。
「いや、それはよく判りません。多分、一人で来ていると思いますが」
「名前が分からないのでは、ちょっと名簿だけでは見当がつかないでしょうな」
言われてみると、その通りだった。添田はリストを見れば、何とか推定がつくと、ぼんやり思って来たのだが、具体的な指摘が不可能なことが、改めて判った。
「リストをご覧になるよりも、フロントの連中に訊いた方がいいかも知れませんな」
支配人はそう言ってくれた。
「連中はお客さまの出入りを始終見ていますからね。尤も、フロント勤務は二交代制になっているので、今日の勤務の者だけでは分からないかも知れませんな」
ボーイが入って来て、紅茶を置いた。
「君」
と支配人はとめた。
「こういう人を知らないかね?」
支配人は、添田の言う要領を話したが、ボーイは記憶がないと答えた。
「とにかく、フロントを呼びましょう」
支配人は言った。
「外国から来た日本の人で、六十歳といえば、或いは判るかも知れません」
支配人は、卓上の受話器を取った。
2022/09/07
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