~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-06)
入って来た若い事務員は、話を聴いて考えていた。
「さあ、どうもわたしには記憶がありませんが」
と彼はしばらくして答えた。
「その方の滞在は永かったのでしょうか?」
「いや、それは判りません」
と添田が横から引き取った。
「ぼくの感じでは、そう長くは居ないような気がします。本人は、多分、日本のいろんなところ、たとえば奈良辺りにも行ったと思いますからね」
「どういうお顔立ちの人でしょうか?」
「いやそれは・・・・」
添田は困った。いつか久美子の家で見た野上顕一郎の写真の風貌ふうぼうをおぼろげな記憶で説明した。
「どうも、わたしは、そんな方はお泊りにならなかったように思います。なんでしたら、われわれよりも各階のサービス係の方がよく知っていると思います。その連中に訊いてみましょう」
「お手数をかけます」
添田は恐縮した。
「いったい何ですか?」
事務員が部屋を出て行ってから、支配人は添田に訊ねた。
「いや、実はちょっと調べたいことがありまして」
「ははあ、何か悪いことですか?」
「そういうことじゃありません。事情を申し上げられないのは残念ですが」
「悪いことでなかったら、まあまあですね。われわれの方ではホテル協会というものがありましてね、ホテルで悪いことをすると、すぐそれを各ホテルに廻し、共同で防衛策を取っています」
「なるほど」
添田はそこで質問した。
「もしぼくの訪ねている人がこのホテルに泊まっていないとすると、やはりそのホテル協会の方に話していただいて探していただく、という方法は取れないものでしょうか?」
「いや、それは出来ないことではありません。しかし、名前が分からない、というのは、ちょっと雲をつかむような話ですね。ただ、当人が日本人で六十歳ぐらい、というだけの手かかりですからね。まあ、しかし、それも一つの特徴とは言えます」
「都内で外人の多く泊まるホテルというのは、どのくらいでしょう?」
添田が訊きたいのは、当人に外人の同伴者があるかも知れないとの仮定からだった。
「まず、一流だと六、七軒くらいです。各ホテルによってお客さまの色合いというものがありますがね。たとえばTホテルだと、これはトップクラスですから、大使館あたりがよく使います。Mホテルは、英国系やオーストラリア系の人が多いです。Sホテルはスポーツ関係、Dホテルは東南アジア系の人、Nホテルは芸能人といったように、大体、お客さまの特徴というか、そういう色彩が決まっているようです。わたしの方は、アメリカの方でバイヤーが多いのですが」
支配人が、そこまで言った時、さっきの事務員が帰って来た。
「各階のサービスステーションに電話して訊いたんですが、どの係も記憶がないと言っています。やはりそのお方は手前どもにはお泊りにならなかったんじゃないでしょうか?」
添田は、最後に、念のため「田中孝一」と「野上顕一郎」の名前を出した。予想した通り、その名前はリストに見当らないという返辞だった。
2022/09/07
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