~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-07)
添田はそのホテルを出ると、ほかのホテルを廻った。
支配人の好意で紹介状を書いて貰ったので、Tホテル、Nホテル、Mホテル、Sホテル、Dホテル、など一流のホテルを順に駈けずり廻った。
「さあ、なにしろ、わたしの方は部屋が九百室もありますので、ちょっと調べかねます」
と言うところもあれば、
「どうも記憶がないようです」
とあっさり断られたりした。
「お名前が分からないでは、なんとも調べようがありません。記憶だけでは間違うと困りますから」
とも言われた。なかには、
「折角ですが、どなたさまにもお知らせ出来ない規則になっております。いいえ、新聞社の方を疑うわけではありませんが、あかには悪質な人が居て、宿泊人を利用される場合が往々にあるのです。これまで、わたしの方も迷惑を蒙ったことがあるので、それ以来、そういう7ことはお断りしているんです」
とはっきり拒絶されたりした。そして、念のために最後に出した「田中」と「野上」の名前は、どこも名簿に無いということだった。
添田はくたくたに疲れた。
要するに、彼が考えていた人物が、東京の一流のホテルに滞在していた可能性の少ないことがこの調査で分かった。
この調査は四時間近くもかかった。ホテルを廻った数でも七軒だった。
帰りは銀座を通ったが、舗道は夕陽の色に染まっていた。商店の中には電燈が賑やかについていた。
添田は、披露した身体を車の座席にもたせて、ぼんやりと外を見ていた。恰度、ラッシュアワーで、車の速度は遅くなっていた。四丁目の角で赤信号にかかり、車はしばらくそこで停車した。窓の外を見ていると、舗道をさまざまな人が通って行く。添田の放心した眼は、その歩いている群衆の中に知った人間を見出した。見憶えの横顔が彼の見ている前で向うに歩いて行く。芦村節子だった。
添田は賑給を待っている車から飛び降りたくなった。だが、むろん出来ないことで、次の横丁まで車が走らねばならなかった。こうなると、車に乗っているのも不便なことである。彼の車を押し包んで、前後左右にはほかの乗用車やトラックがひしめいていた。
信号の変わるのがもどかしかった。
走り出してからも、添田の眼は芦村節子の姿を見失わないように貼り付いていた。彼女の方では、添田から見られていることを知らないで人混みの中を歩みつづけている。
「そこで停めてくれ」
よほど追い越してから、添田は運転手に命じた。そこでなければ停車の出来ない位置だった。
車を降りて、舗道を逆に歩いた。こうすると彼女と必ず逢える筈だった。
添田はおびただしい通行人を気を付けて見ながら歩いた。だが、節子の顔はその中に入っていなかった。彼の足はいつか四丁目の角まで来た。
添田は軽く狼狽した。たった今、車の中で見かけた芦村節子に何とか逢って話したかった。偶然だったが、彼女の姿を見た瞬間に、話を交わしたい衝動が起こって来ていた。彼女が発見されないとなると、余計にその気持はつのった。
添田は、もう一度、元の方へ引き返した。眼は節子の背中を探した。
ようやく節子の姿を捉えたのは、もう一度遠くまで歩いて失望し、諦めきれずに引き返した時だった。片側の商店街の一つにきれいな陶器や果実を売る店があった。芦村節子がその店の奥に立って居た。探しても分からない筈だった。彼女は、添田が車で目撃した直後に、この店に入ったのである。
添田は、店の入口からすぐには声をかけないで、彼女の買物の済むのを待っていた。見ると、節子は陶器の皿を選択していた。女店員がひとり付いて、いろいろと見せている。
添田は人混みをよけて立ち、煙草を喫った。
節子のすんなりとした姿が買物を済ませて出て来るのに、二十分はたっぷりかかった。
「あら」
芦村節子は添田を見出してびっくりした顔をした。それから親し気に笑った。
「この間はどうも。ここでお目にかかろうとは思いませんでしたわ」
添田はお辞儀をした。
「ぼくも車の中でついお見かけしたものですから」
「まあ、待っていてくださったんですか」
添田は自分がちょっと不良のような気がして頬をあからめた。
「お買物の最中だったようですから」
「声をかけて下さればよかったのに」
彼女は言った。
「そうそう、この間、久美ちゃんがうちに遊びに来てた時、野上の家にお見えにな
ったんですって?」
「ええ」
「久美ちゃんが電話をかけるとき、伺いましたわ」
「奥さんにお話があるんです」
添田は思い切って申し出た。
「三十分ばかりお時間を頂けませんか?」
節子はちらりと添田の顔を見たが、
「結構ですわ。どこかでお茶でもいただきましょうか」
二人は並んで歩いた。
2022/09/10
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