~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-08)
「芳名帳の、あの部分だけが・・・?」
芦村節子は添田彰一の話を聴いて、みはり、またたきもせずに彼の顔を見つめていた。
上品な喫茶店だった。赤いレンガの棚に懸崖けんがんの菊が並べてあった。照明は薄暗いが、菊の色で目が覚めるようだった。静かなレコードの音が菊の花弁にみ込みそうだった。
「そうなんです」
添田はうなずいた。
「田中孝一さんの署名のあるページだけが、唐招提寺でも安居院でも、剃刀を当ててきれいに切り取られていました。
呆れたような顔をして、節子はまだ添田を見つめていた。
「寺の人もそれを気づかないんです。どうして、誰が、その部分だけを切り取ったか、奥さんにも、無論、お心当たりはないでしょう?」
芦村節子は軽く呼吸いきをひいた。
「さっぱり」
と彼女は愕いたままの顔で答えた。
「心当たりはありません。どういうのでしょう? お話を伺って、ただ奇妙に思うだけですわ」
「滅多にないことです。しかも、言い合わせたように、両方の寺でその部分だけが切り取られている。一つだけだったら偶然と言えるし、ほかの名前に興味を持った人がやったとも思えますが、二つの寺のどちらにも田中孝一の名前がついている。もう偶然ではありませんし、明らかに、田中孝一という筆蹟を狙った人物がしたことです」
節子は、少しこわいような顔をした。
「添田さん、わざわざ、その筆蹟に興味を持って、奈良にいらしたんですか?」
「実は、そうなんです。久美子さんから、奥さんのお話を聞いて、急に、それを見に行きたくなったんです。すると、結果がそうでした」
「伺いますわ。どういうおつもりでそれを見に奈良までいらしたんですの?」
添田は、急に、それには返辞はしなかった。少し考えて答えた。
「その田中孝一という名前を書いた字体が、野上さんによく似ていることに興味を持ったんです。ところが現地に行ってみると、とにかく、ぼくと同じ興味を持った人間がもうひとり居たことを発見しました。その人間がぼくより先に寺に行って、その署名の部分を切り取った。こう考えていいと思います」
今度は節子が黙る番だった。添田を見つめていたが瞳が視線をそらしてから、遠くを見つめる表情に変わった。
視線の先には、若いきれいな娘たちが客にコーヒーを運んでいる。
「添田さんは」
彼女はそのままの眼つきで、低く、ゆったりと言った。
「野上の叔父が生きているとでもお思いになりますの?」
「それなんです」
添田は即座に答えた。
「いつぞやお話を伺って、ふいと、ぼくはそんな気がしたのです。奥さんは、野上さんの亡霊に取り憑かれたと御主人から言われたそうですが、亡霊ではなく、実際の人間がこの日本に帰られているような気がするんです」
節子は、あとの言葉を出さなかった。瞳を据えて、しぐ横にある懸崖のたまを重ねたような小菊をみつめていた。
2022/09/11
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