~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-09)
「でも」
急に、彼女は添田の方を向き、強い調子になった。
「野上の叔父の死んだことは、ちゃんと公報にありましたわ。そりゃ軍人の方で戦地で亡くなった場合、公報が当てにならないとは言えます。けど、野上の叔父は、中立国駐在の一等書記官でした。病気になって入院したのも中立国でしたわ。まさか、その公報まで嘘とは思えません。ちゃんとした外交官が死んだんですもの。間違いの電報が打てるものでしょうか?」
「そのことです」
と添田は何度も深くうなずいた。
「ぼくも公報が真実であることを信じます。おっしゃる通り、野上さんは兵隊ではなく、また戦争で亡くなったのでもありません。生きて英霊が帰ったとう場合と違います。それでも、ぼくは、何か野上さんが生きてこちらに帰っていらしゃるような気がしてならないんです」
「いけませんわ」
芦村節子は、口だけは笑ったが、眼はきつい光りを持っていた。
「添田さんがそんなことをお考えになってはいけません。わたくしたちは政府の公電を信じて居ます。叔父は日本を代表する外交官です。そして亡くなったのが中立国ですもの。それが誤報だとか嘘だとか絶対に考えられないんです。どうぞ、そんなお考えはもうおよしになってください」
「ぼくも、奥さんのおっしゃるようなことを何度か思い返しました。昭和十九年といえば、すでに、戦局は苛烈な様相を呈していました。しかし、一国の外交官の死亡について、相手の中立国も、日本の政府も、間違った公表をする原因はないわけです。野上顕一郎一等書記官の病死は、政府の発表として、当時の新聞にはみんな載っています。ぼくはその切り抜きをここに持っています」
「ですから・・・」
芦村節子が顔色を激しく動かすのを、
「そうなんです。ですから、それを信じようと思って、自分の考えが妄想だと思い切ろうとしました」
と添田はすぐに言った。
「しかし、それにしては不思議な事が多いのです。野上さんの筆蹟が奈良の寺に残っている。野上さんはかねてから奈良の古い寺を廻るのがお好きだった。しかも、その芳名帳の署名が誰かの手によって切り取られている。これはぼくだけの考えですが、田中孝一という名前の人が廻ったのは、唐招提寺と安居院だけではないと思います。もっとよその由緒ある古い寺にも同じものが残っているかもっ知れません。いや、あるいはそれも切り取られているかも分かりません」
節子は添田をさえぎった。
「野上の叔父と同じ筆蹟を持っている人は、この世の中にはいないとは限りませんわ。それを叔父の生存説に結び付けてお考えになるのは、失礼ですけれど、添田さんの空想だと思いますわ」
「それは空想かも分かりません。しかし、そう言い切れないものがあるのです。奥さん、最近、世田谷で或る殺人事件が起こりました。殺された人は、戦時中、野上さんと一緒に中立国の公使館にいた武官の方なんです」
芦村節子の顔から急に血の気がひいた。
2022/09/11
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