~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-01)
「モデルに?」
久美子は、息を呑んだような顔になって、母を凝視みつめた。
急だし、思ってもみないことだった。第一、母の人柄として、およそ似つかわしくない話なのだ。
勤め先から帰って母に切り出されたのがその話だった。
「モデルといっても、先方では、久美子にそのままの姿で坐って貰ったらいいとおっしゃるの」
先方というのは、笹島ささじま恭三きょうぞうという洋画家だった。かなり有名で、その名前は久美子も知っている。
「久美子に、どうして、そんなお話が来たのかしら?」
その疑問に母は説明した。
「その画家の方が、久美子をどこかで見かけたんですって」
「あら、いやだ」
「何か、その画家の方は、今、大きな作品の中に少女の像を入れる必要があり、そのため適当な若い人をどうしてもデッサンしたいんですって。それで、モデルを探してらしたところ、思わしい人がいなくて困ってたしたときに、久美子をごらんになり、久美子がそのイメージにピッタリだとおっしゃるの。滝さんからのお話がそうだったわ」
「滝さんから?」
世界文化交流連盟理事の滝良精氏のことだった。
「滝さんは、お父様があちらにいらしった時、ご一緒だった新聞社の特派員でしたからね。永いことお目にかからなかったのが、今日、突然に此の家に見えて、そのお話があったんですよ。わたしも滝さんにお目にかかったのは、七、八年振りだったわ。随分、びっくりしたけれど」
「それで、お母様、しぐにそのお話、お引き受けなさったの?」
久美子が母の軽率を少し詰るような目つきをしたので、母はちょっとまぶしい顔をした。
「何しろ、お父様とご一緒だったと聞くと、わたしも懐かしくてね、むげにはお断り出来なかったの。久美子がどうしても嫌ならそれでもいいのよ。滝さんにそう言って置いたから。でも、たった三日間でいいから何とか無理を聞いて貰えないかって、滝さん、とても熱心におっしゃるの」
「その滝さんと、画家の笹島さんとは、どういう関係かしら?」
「同郷の御友人ですって。その笹島さんという方は久美子を電車の中で見かけた時、わざわざ電車を降りて久美子のあとを歩き、この家を見届けなさったそうよ」
「まあ、気味が悪いわ。まるで、不良のすることだわ」
久美子は顔をしかめた。
「いえ、芸術家というのは、そういうところがあるらしいわ。自分の気に入ったモデルに出会うと、つい、そういう気持になるのね」
「だって、、それは先方の勝手ですわ。わたくしの知らないことだわ」
「そりゃその通りだけどね。だけど、わざわざ滝さんが見えて、自分の友達のために、三日間でいいからイーゼル(画架)の前に坐ってくれと熱心にお頼みになるので、わたしも頭からお断りする気になれなかったの」
母は困ったような顔をしていた。
「でも、三日間でいいのかしら?」
久美子は、もっとかかるような気がした。
「そうよ、デッサンだから久美子の顔だけスケッチしたいとおっしゃるんですって」
「そう」
久美子は眼を伏せた。
母は、滝良精氏の頼みを半分はいているのだ。その母の気持は久美子に解らないではなかった。母は、亡父ちちのことになると、実に熱心だった。滝氏のその頼みを即答に近い形で承知したらいいのは、外国時代の父とつき合った人を大事にしているからである。
「考えてみるわ」
久美子は弱気になった。ほかのことだったら、すぐ母に腹を立てるところだが、父のことを想っている母の気持を想像すると、やはり、失望させたくなかった。母は、すでに滝氏の側に立っているのだ。
2022/09/12
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