~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-02)
「夜、伺うのかしら?」
久美子は昼間の勤めがある。夜だと、それを理由に断われそうな気もした。だが、母は、それも考えていた。
「あなたは、役所で年次休暇があったわね。今年は、まだ一度も取ってないでしょう?」
なるほど、その手もあったのかと思った。
「だって、お母さま、あれは、この冬、スキーに行くためにとってあるのよ」
久美子は、すでに母の押しつけの前に崩れてはいたが、はかない抵抗をしてみた。
「でも、あなたは日曜日を入れると、あと二日だけお役所から休暇を頂けばいいわけでしょう。それで三日になるは。ねえ、その画家の方、というよりも、滝さんの希望を容れてあげてはどう?」
「お母さま、とてもそれをおすすめになるのね?」
「お父さまの、あちらでのお友達ですからね」
「なら、いいわ」
久美子は決心したようにやっとうなずいた。
「でも、長い時間坐ってるんじゃないでしょうね?」
「ええ、一日に二時間でいいというお話よ」
母は眉を開いて安心した。父のことになると、たわいがないくらいだった。久美子が承諾したので、母の顔色は急に明るくなった。
「笹島さんという画家の名、あなた、知って居るでしょう?」
「ええ、お名前だけは」
「腕の確かな方だそうよ。寡作かさくな方だけど、専門科の間には、相当高く評価されているんですってね」
母は滝氏から聞いたらしく、にこにこして言った。
久美子も、それは、何かで読んで知っていた。
笹島恭三といえば、あまり妥協しない画家として、久美子も正確ではないがぼんやりした知識を持っている。暗い色調を好んで使う画家だが、それだけ、作風はユニークだと言われているのである。
アメリカ人の間に人気があって、頻りと彼の絵を欲しがる画商もあったが、彼の寡作なペースは崩れなかった。
久美子はそんなことをぼんやりと思い出していたが、ふと、その笹島恭三が独身だったことにも気づいた。それも、何かの本で読んだのである。
笹島画伯は最初から妻を持たなかった。年齢は確か五十歳に近い筈だが、ずっと独身で通している。これは、雑誌の上での知識だが、笹島画伯によると、芸術のためには、家庭は邪魔だから、結婚はしないというのだった。
「ねえお母さま」
久美子は、また浮かぬ顔になった。
「その笹島さんは、独身でしょう?」
「ええ、それも滝さんがおっしゃったわ」
と母は平気だった。
「でも、人物はとてもしっかりした方だから、ご心配は決して要らないと滝さんがおっしゃったわ。世間に名前の通ったちゃんとした方だし、それに、たった三日間だから、わたしも、その点はいいと思うの」
「そう、お母さまがそうおっしゃるなら」
久美子は言った。
「伺ってもいいわ。でも、何だか、やだな。久美子がモデルになるなんて」
「ちゃんとしたモデルと考えるからいけないのよ。ただ、デッサンだけだし、久美子の顔を、そのまま絵にお描きになるわけでもないでしょう。画家というのは、勝手に絵の上でお手本の顔を変えるものらしいわ」
母は珍しく展覧会の話などした。母の方が久美子より興奮していた。
久美子が、二、三日の中に笹島氏のアトリエに行くことになったのは、その話が、先方で大そう急いでいるからだった。
2022/09/12
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