~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-03)
笹島恭三の家は、杉並のはずれにあって三鷹台みたかだいの駅から近かった。久美子の家も同じ区内なので、距離的には都合がよかった。
電車を降りて、駅の北側に向うと少し上り坂になる。この辺は、長い塀をめぐ らした家が多かった。まだ、武蔵野そのままの雑木林が、それらの家の背後にそびえていた。
笹島画伯の家は、駅から歩いて五分とかからなかった。敷地は案外広いが、家は小さかった。もっとも、その家の後ろにあるアトリエらしい建物が母屋おもやより大きいのである。
その日は土曜日だったので、久美子は昼すぎに笹島氏の訪問することが出来た。この訪問に先立って、母から滝良精氏へ電話をかけて伝え、滝氏から笹島画伯に連絡がついている筈だった。
門をくぐって、竹を植え込んだ小径を通ると、古くなりかかった玄関口に着いた。此処まで来る時に気がついたのだが、敷地が広いだけに、庭を充分とって、そこにはバラなど草花を植えた花壇が、いろいろな区画でつくられていた。花が好きな絵描きらしい。
ブザーを短く鳴らした。すると、玄関の戸を開けてくれたのが、当の笹島氏だった。
着流しだったが、久美子を見て、先に笑ってお辞儀をした。ばさばさした髪が額に乱れ落ちた。
「野上さんですね?」
笑うと、目尻に皺が寄り、頬に深いえくぼがあった。長い髪だけが痩せた顔に張り出していた。煙草好きらしく、歯が黒かったが、それが可愛く見えた。
「どうぞ」
久美子が挨拶しようとする前に、気軽に自分で応接室に案内した。
「おい、お客さまだよ」
画伯は、奥の方に向かって大きな声を出した。それが、五十ばかりの家政婦だったことは、当人があとでお茶を運んで来たことで判った。
応接間の壁は、自作の絵で画廊のように飾り立ててあった。だが、何となく見えない不整頓さがある。やはり、主婦の居ない家の埃っぽさが、どことなく感じられるのである。これは、久美子がそのつもりで眺めた眼のせいかもわからなかった。
久美子は初対面の挨拶をした。それも、画家は磊落らいらくに受けた。
「無理を言って済みませんな。事情は滝さんからお聞きでしょう?」
「はい」
久美子は、少しあかくなった。画家特有の対象を見つめる時の強い目つきなのである。
「あなたに早速、承知して頂けて大変有難いのですよ。お聞きになったと思いますが、モデルになって頂くといっても、ただ、あなたの顔だけをデッサンにとれば結構なんです。難しいことを考えないで、気楽に本でも読むつもりで、ぼくの前に坐って下さい」
画家はおとなしい声で言った。
始終、微笑を忘れないでいるので、彼の痩せた頬から、えくぼが消えることはなかった。頬骨の出た鋭い輪郭だが、笑っている皺が柔和な印象を与えた。
久美子は、少し安心した。実のところ、此処に来るまで動悸が鳴っていたのだが、それも鎮まった。この人なら安心だと思った。それは、芸術家に対する漠然とした信頼感と、尊敬から来ていた。
「いつから来て頂けますか?」
久美子が、明日が日曜だから、それから続けて三日間通うつもりだ、と答えると、画家は、恐縮したように頭を掻いた。
「申し訳ないですな。いや、ぼくも、こんなに早く、あなたが承諾して下さるとは思わなかったのですよ。それに、ぼくの仕事も少し急いでいるので、早速、明日から来て頂くとなると、これは助かります」
背の高い家政婦が茶を運んで来て、久美子にお辞儀をして引き退がった。
「ぼくには」
画家は、家政婦の足音を廊下に聞きながら、てれたように笑いながら言った。
「女房がいないんですよ。それで、行き届かないことがあると思いますが、辛抱して下さい。あの家政婦も、明日から、しばらく来なくなるのです」
久美子は思わず、顔色を変えそうになって、画家の顔を見た。
画家の言葉が、久美子には不安に聞えた。此処に入る時、その硝子張りの屋根だけを見たのだが、あの広いアトリエに、画家とたった二人きりで対い合うのかと思うと、折角おさまった胸の騒ぎが、またはじまった。
「制作の時に、あまり人間がうろうろするのは、ぼくは嫌いなんです。サービスは行き届きませんがね、コーヒーくらいは、ぼくが沸かしますよ。昔からそういう主義なんです」
久美子は抗議が出来なかった。相手は画家だし、一旦こちらで承知した上でのことだから、今更の拒絶は相手の気持を侮辱するようで彼女に出来なかった。二時間と限った時間を先方から言ってきているのだし、折角、画伯を信頼している自分の気持を変えたくはなかった。
「時間を決めましょう。あなたの都合に合わせますよ」
久美子は考えたが、
「午前中の方がいいんですけれど」
と言ったのは、やはり安全を考えてのことだった。
「結構です。その方が光線の具合がいいんです。それは有難い、何から何まで好都合だ」
画家は、相好そうごうを崩していた。
「では、十一時から午後一時までということにしましょう。早速、明日から来て頂けるわけですね?」
画家は久美子の顔を凝視して念を押した。
「そう致します」
画家は無駄な話をしなかった。打合せが済むと、急に寡黙になった。それは、客にもう帰ってもいい、と言っているようにとれた。この無愛想が久美子に安心を一つふえさせた。
画家は、久美子を玄関まで見送ってくれた。だらりと巻きつけた兵児帯へこおびの間に両手を突っ込み、久美子の挨拶に会釈した。
久美子は、もと来た道を下って駅に着いた。半分夢中だった。ホームに出て、電車を待っている時になって、ようやく自分の気持に還った。ホームに高い所がある。だから、恰度、眼の高さに雑木林の丘が眺められた。その中腹に、さまざまな家の屋根が並んでいた。笹島画伯宅の、特徴のあるアトリエの硝子屋根が、樹の間に光っている。
明日からあの中に坐るのだと思うと、久美子は、現実にそれが自分のことでないような、妙な気持になった。
2022/09/15
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