~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-04)
アトリエに坐らせられるのかと思ったが、そうではなかった。笹島画伯は、久美子を広縁の籐椅子とういすに掛けさせた。
「まずスケッチから」
という画伯の断りだった。自然のままに、いろいろと顔のポーズをとってみたいというのである。アトリエだと久美子が改まった気持になるかも知れないからとも言った。彼女もその方が楽だった。
そこは、母屋の裏側になっていて、すぐ広い庭が見渡せた。花の好きな人だということは、煉瓦れんがで囲った花壇に、いろいろな花が分けて植えられていることで分かる。きれいだと思ったのは、菊や、コスモスなどが咲き乱れている眺めだった。花の好きな画家だから、心のやさしい人に違いないと、久美子は思った。
今日の笹島氏は、昨日と違って、格子縞こうしじまの派手なセーターを着ていた。その方が、久美子の眼には、ずっと画家らしく活気があふれて見えた。画伯は対い合った籐椅子に腰かけ、組んだ膝の上にスケッチ・ブックをひろげ、鉛筆を握っているのである。彼の顔からは昨日と同じように微笑が絶えなかった。脂気のない、乾いた髪が乱れているが、笑っている眼は細かった。
画伯の顔の半分と肩の片側に、午前の光線が柔かく当たっている。その光線の射し具合が、ちょうど、自分にも同じように当たっているのだと久美子は思った。画家が、この時刻がいいと昨日喜んだ理由が分かるような気がした。
はじめてのことだし、専門の画家の前のモデルだから、久美子は、自然固くなった。
画家は、そんぽ眼が繊細なのか、それとも、彼の気持が敏感なのか、そういう状態の時は、決して鉛筆を走らせようとはしなかった。鉛筆は手に持っただけで、パイプをくゆらせながら、久美子と雑談をはじめるのである。
笹島画伯は、何でもよく知っていた。最初の印象では無口だと思っていたが、その話を聞くと、なかなか博識だし、面白かった。話し方が静かなだけに、相手の言葉が、自分の内部にじかに聞こえる感じだった。あたりも静かなので、画家の声が、透明な空気の中によくとおった。
画家の話は、相手の年齢を考えてか、若い人に関係した内容が多かった。決して気どらない自然な話し方なので、久美子の気持も次第にほぐれた。外国映画の話、コーヒーの話、小説の話、つまり、決して絵の世界だけではなかった。
だが、このような話の中でも、画家の眼は、絶えず久美子の顔に注意深く注がれていた。やはり、対象を眺める時の、あの、しかめたような眼つきで凝視されるのである。
「どうです、お勤めは面白いですか?」
画家は、ときどき鉛筆を走らせながら訊いた。この鉛筆をとるときが、久美子に自然の線が出た間に限っているように思われた。
「別に、それほど、面白いところではありませんわ。ただ、何となくお勤めして、帰るだけですもの」
「それは、勤めとなると面白くないでしょう。だが、じっと家に引っ込んでいらしっても詰まらないでしょう。毎日、外に出かけた方がいいですよ。ただ、それが惰性だけでは、毎日のことが退屈になって来ますがね」
話は、そんなことで、とりとめはなかった。もとより雑談だから、その方が久美子に気楽なのである。
久美子の最初の考えでは、モデルになると、画家の命令通り、いろいろと顔の向きを変えなけらばならないかと思ったが、笹島氏は、そんな指示は全然しなかった。ただ、彼女の自然の動きの中から、瞬間に気に入った線をつかんで行くようだった。
「先生は、なぜ、ご結婚なさいませんの?」
かなり慣れてから、久美子は、思い切って訊いた。若い女性の素朴な質問だし、この質問はっさほど不躾ぶしつけではないと思った。
画家は笑い出した。
「若い時から絵ばかり描いていましてね、つい、気に入ったお嫁さんを貰う機会を逃してしまったんですよ。もう、この年齢としになってはおっくうで、今さらお嫁さんを貰うよりも、独りでのんびりとした方がよくなりました」
画家の今朝の顔色は清潔だった。着流しで現われた時は、独身者と聞いていたし、妙な気持がしないではなかったが、仕事をしている時の彼の姿は、意外に若々しかった。が、よく見ると、画家の鬢の辺りには、白髪が混じっていた。
画家という特殊な職業の人だから、この年齢で独身を通しているのは、久美子にも不自然には思われなかった。久美子は、この人は、若い時に何か恋愛をして、それが不幸な結果になったので、それきり結婚を諦めたのではないかと思った。だが、それを訊くのには、まだ遠慮があった。それよりも、そんなことを想像するようになったのは、画家の前に坐っていることに慣れて来た証拠だった。
2022/09/16
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