~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-05)
気楽にという画家の言葉だし、久美子は気儘きままに姿勢を変えた。こんなに動いていたら、絵に描けないだろうと思って、暫くじっといていたのだが、画家は反対にそれを嫌がった。家に居る時と同じように楽にしてくれ、と言うのである。
ふと見ると、庭の花壇の間に人が動いている。これは老人の雑役夫で、花の手入れをしているのだった。何時いつも後ろ向きになって、画家の仕事の邪魔にならないように気を配って、目立たぬように花の間に動いている。画家のお古らしい、きたない登山帽のようなものを被り、カーキ色のシャツを着ていた。
花の好きな画家だけに、そういう手入れのために男を雇っていると見えた。鋏の音が、ときどき鋭く聞こえて来るのである
画家は、鉛筆を走らせると仕事は早かった。クロッキーというのであろうか、サッと書き上げると、忽ち、次の紙をめくるのである。こちらに坐っているので、勿論、分かりようはなかったが、久美子は、自分の顔が、この画家の手でどのように再現されて行くか、気にっかった。あとで見せて貰いたくもあったし、恥ずかしくもあった。
画家が鉛筆を走らせる時間は短い。だから、一時間もする、四、五枚くらいは描き上げた。
「何枚も、こうして、あなたの顔を写して置くのです。それで、一番、ぼくに気に入ったポーズを決めたいと思います。明日から、そろそろ、こちらの注文通りにまって頂きますよ」
画家は、鉛筆をき、時計を見た。
「昼になったから、仕度をして来ます。ちょっと待って下さい」
「あら、結構ですわ、わたくしでしてら」
「まあ、そうおっしゃらないで。ぼくはこれで、案外、美味うまいものを作るんですよ」
画家は、椅子から立った。
「先生、あの、わたくし、お手伝いしましょうか?」
「いいんです、あなたはお客さまだから」
画家は言った。
「それに、ひとりの方が慣れているんです。そこにそのまま坐って待ってて下さい」
笹島画伯は、奥の方に歩いて消えた。
言われた通りに、久美子は椅子に坐ったままぼんやりしていた。画伯の描いたスケッチ・ブック表紙を閉じてそこにある。久美子は、ちょっと悪いような気がしたが、恐る恐る、それを取って開いた。
自分の顔が紙に描かれていた。鉛筆の走り書きだが、巧みに久美子の特徴を掴んでいた。いつも鏡を見て気づいている顔のくせが、実に的確に線となって現われている。やはり画家である。
久美子は、次をめくった。横を向いているポーズで、これは花壇の方をふいと見た時に捉えられたらしかった。次を開けた。やや俯向うつむき加減の顔だ。それから正面を向いて話してる時の顔、斜め横の顔などさまざまな自分の顔が次から次に現われるのだった。そのどれもが鉛筆の確かな線で組み立てられていた。
ひどく似ている絵もあるし、似ていない絵もあった。似ていない絵は、画伯が自分に意識で勝手に対象を変えた絵らしかった。また、顔全体でなく、額だけとか、眉、眼、鼻、唇、そういった部分だけが描かれているのもあった。
久美子がスケッチ・ブックを眺めている間、花壇の中では、やはり鋏の音が跡切とぎれては聞こえていた。
久美子は、ここに来てよかったと思った。絵に描かれるのはあまり気が進まないけれ、郊外のこのような静かな環境の中に坐っていることが、何か一番美しい瞬間に思われた。
2022/09/18
Next