~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-06)
翌日は月曜だったが、久美子は、約束の時間通り、十一時に、三鷹台の駅から歩いて行った。役所の方には、休暇届を出しておいた。この年次休暇は、冬になってスキーのために取っておいたのだが、その貴重な二日間を今度のことで削られても悔いはなかった。
昨日と同じように、玄関を開けてくれたのは笹島氏だった。今日は最初から、格子縞のシャツを着込んでいた。
「いらっしゃい」
画伯は、例の深いえくぼを作って微笑わらった。
「もうあなたが見える時分だと、実はお待ちしていたんですよ」
昨日きのうは失礼しました」
久美子はお辞儀をした。
「いや、こちらこそ。さあ、どうぞ」
昨日と同じ廊下だった。今日からアトリエだ、という話だったが、やはり縁側の籐椅子の上に坐らされた。
「考えてみると、アトリエよりもこっちの方がいいようですね。ここだと、くだらない花壇ですが、花も見えるし、ずっと向うの森まで見通せます。アトリエではだだっ広くて、こんな外の景色が見えませんからね」
久美子もその方がよかった。
今日も天気がよく、秋の陽が花壇に降りそそいでいる。背景が黄ばんだ雑木林だった。その中で、相変わらず画家のお古らしい登山帽を被った雑役夫が、花や植物の間を静かに動いていた。
「どうですか、お母さんは御心配なさらなかったですか?」
画家は微笑わらいながら訊いた。
「いいえ、早速、帰って話したら、とても喜んでいましたわ」
「そうですか。そりゃよかった」
画家は言った。
「それも気にかかっていたことです。それを聞いて、ぼくも落着きましたよ」
画家は、大きなスケッチ・ブックを拡げた。やはり昨日と同じように鉛筆を構えた。が、すぐにそれを走らせるのではない。しばらく雑談をつづけていた。
「先生は、前にわたくしを途中でごらんになったそうですが、どこでお目にかかったのでしょうかしら?」
久美子は、母から聞いた話を想い出して訊いた。
「滝さんがしゃべったわけですね」
画家がちょっと照れ臭そうにした。
「電車に中ですよ。どこだったけな? ちょっと忘れたが」
画家は、眼を天井に向けて考えるようにした。
「きっと中央線ですわ。わたくしは荻窪おぎくぼで降りますから」
「ああ、そう。だったら、代々木よよぎだったかな」
画家はつぶやいた。
代々木ではおかしい。それは画家の錯覚に違いなかった。久美子は、霞ヶ関かすみがせきの地下鉄から新宿まで行き、それから中央線の国電に乗り換える。だから代々木で見られるはずはなかった。が、久美子は、それを訂正しなかった。画家の思い違いのままにしてもかまわなかった。
「久美子さんは、お母さまと二人だけで、寂しいでしょうね?」
画家は、やっと鉛筆を握ってから言い出した。
「ええ、そりゃとても寂しいんですの」久美子はうなずいた。
「お父さまは、外国でお亡くなりになったんですって?」
「そうなんです。終戦一年前になって、向うで病気にかかり、こちらには遺骨だけ帰って参りましたわ」
「それはお気の毒でしたね。しかし、お母さまも、久美子さんがいいお嬢さんだから、安心ですね」
「わたくし一人っ子なんですの。ですから、これで兄弟がもう一人か二人いたら、どんなに母の寂しさが紛れるか分からないんですけれど。わたくしだけでは、ときどき、寂しいって母がこぼしますわ」
「そうでしょうね・・・
この間にも、画家は絶えず久美子を見つめては、紙の上に鉛筆を走らせた。久美子の顔と紙の上とに交互に眼をやる。昨日と違い、今日は久美子もかなりそのことにれていた。
画家は、絶えず久美子を退屈させまいと気を遣っていた。画家の雑談はそのためのようだったが、それが分かると、久美子はかえって気詰りだった。
「先生、そんなにお話ばかりなすってらして大丈夫ですの?」
久美子は、それとなく自分の気持を言った。余計な気遣いはしてくれなくていいのだ。絵だけを描いてもらっていれば退屈などしないからと言いたかった。
「大丈夫ですよ。こうおしゃべりばかりしながら描いている方が、ずっと仕事が巧くいくんです」
画家は言った。
「ぼくはこれで人見知りする方ですがね。だから、嫌いな人と対い合っていると、一言も話したくないんです。ですが、久美子さんみたいないいお嬢さんとなら、しゃべってること自体が愉しいんですよ」
「どうもありがとう」
久美子は微笑して頭を下げた。
「いや、これは本当です。なにしろ、絵描きっていうのは、しかめっ面して深刻に描いたからっていい絵が出来るわけではありません。やはり愉しい気持が第一ですよ。愉しい心で描いた時の絵が一ばんの出来になるんです」
事実、画伯は愉しそうに滑らかに鉛筆を動かしていた。光線は昨日と全く同じだった。
画伯の顔の片側と、肩の半分とに陽が当たり、そこだけが浮き立っているように明るいのである。髪毛に混じった画家の白髪がチカチカと光っていた。
画伯が黙っている間、紙の上をすべる鉛筆の音がカサカサと鳴った。これと、庭から聞こえる鋏の音がときどき混じるだけだった。
花壇の間を動いている老雑役夫のゆっくりした動作が、さらにこの穏やかな静かな雰囲気を助けた。
2022/09/20
Next