~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (08-07)
その日帰ると、母は待ちかねたようにして言った。
「どうだったの、きょうは?」
と早速訊いた。
「ええ、とても愉しかったわ」
久美子はにこにこして答えた。
「先生のお仕事、はかどっているの?」
「ええ、何だか知らないけれど、いろんな久美子を描いていらっしゃるわ」
そう、よかったわね。どんな絵ができているか、わたしも見たいわ」
「あら、だめよ。わたし、先生の居ない時に、そっとスケッチ・ブックを見たの。そうしたら、わたしの顔がいろいろな恰好でできていたわよ。よくあんなにしゃべりながら描けると思うぐらい久美子の特徴を掴んだ絵だったわ」
「それは、やっぱり、絵描きさんせすからね。それにあの方、有名なんでしょう。偉い画家だから、どんなに話をしていても、ちゃんと描けるわけね。御用済みの画を二、三枚いただけないかしら?」
「いやだわ、お母さま」
「だって、スケッチだから、全部がお要りになるわけじゃないでしょう。ちゃんとした絵にお描きになるまでの下書きですからね。ご用が済んだら頂けると思うわ。それに、わたしだって、ご挨拶に行かないのも変ね。いくら滝さんのお話だとしても」
母はそこまで言いかけたが、気づいたように、
「そうそう、今日滝さんからお電話があったわ」
と言い出した。
「久美子が、ちゃんと笹島さんに行って下さるそうで、とても、笹島さんが悦んでいらっしゃるというお言伝ことづてだったわ。滝さんも丁寧にお礼をおっしゃったの」
「そう」
久美子は、自分がモデルになるのをみんながそんなに悦ぶのかと思った。だったら三日といわずに、もっと長くてもいいと思った。
「笹島先生って、いい方ね。ちょっと子供っぽいところもあるのよ」
久美子は笑った。
「今日は何をご馳走になったの」
「カレーライスでしたわ。それがとてもよくできて美味おい 美味おいしかったの。家でいただくのより、ずっとおいしいのよ」
「そう、しんなにお上手?」
「まるでレストランに行っているみたいよ。あれだったら、奥さまも要らないわけね」
「久美子」
母はたしなめた。
「陰でもそんなこと言っちゃいけないわ」
「だって、それがすごくおいしいんですもの。お母さまなんかより、ずっとお上手よ」
「そう、何か秘訣ひけつがあるのかしら。絵描きさんだから、きっと外国を廻ってらして自然と覚えられたのね」
「そうかも知れないわ。わたし、モデルになるよりも先生のお料理をいただくのが愉しくなっちゃった。あしたは何が出るのかしら?」
その翌る朝が来た。
久美子は十時過ぎに家を出た。四、五日続いた天気は、今日になると少し崩れかけてきた。雲が厚く自然と景色が薄暗いのである。
こんな日でも、画家の仕事は変わりないのかと、ちょっと心配だった。だが、スケッチだし、これまでのこともあって、やはり、今日はその先を進むのだと思った。昨日きのうの画家の話では、今日は簡単な水彩に仕上げるということだった。
久美子が画伯の玄関に着いたのは十一時だった。玄関のブザーをそっと押した。何時もなら、すぐに内側に人の影が差して、玄関の錠を開けてくれるのだが、今日はそのことがなかった。しばらく立っていたが、何もないので、久美子はもう一度ブザーを押した。
ふぁが、それでも、誰も玄関に出て来る気配がなかった。久美子は、画伯が手の離せない用事でもしているのかと思った。昨日も一昨日もすぐに当人が出て来て迎えてくれたのである。十一時に久美子が来ることは、画伯にわかっているし、ブザーを二度押してもその画伯が出て来ないのは、よほどの都合があるのだろうと思った。
久美子はさらに十分ばかり待った。そして、もう一度ブサーを押した。
やはり、誰も出て来ないのである。久美子は庭で花の手入れをしていた雑役夫を思い出した。彼女は玄関を離れてそっと庭に通じる垣根の方に歩いた。垣根は低かったから、そこの庭の一部が見えた。花壇も植込みも見渡せたが、二日間続いて久美子の眼にうつっていたあの老雑役夫の姿は見当らなかった。
久美子は諦めて、もう一度玄関に戻った。
そして、今度はかなり長くブザーを押し続けた。それでも、内側から人の来る様子は無かった。どうしたというのだろう、留守なのか。いやいや、そんなはずはなかった。久美子が来るのを無論、笹島画伯は待っている筈だった。留守なわけはないのだ。
諦め切れずに、久美子はもう一度ぶざーを押した。だが、変化は起こらなかった。この時気づいたのだが、この家の戸締りがまだそのままなのである。
それでは、当人はまだ寝ているのであろうか。夜はおそくまで仕事をして、その疲れで眼がさめないのか。ブザーの音はかなり高い筈だが、それでも起きて来ないとなると、よほど疲れて寝込んでいるのかも知れなかった。
久美子は迷った。
もう少しここで立って待った方がいいか、このまま帰って出直した方がよいか。
しかし、さすがに久美子はもうブザーを鳴らす勇気がなかった。途方に暮れたが、結局、引き返すほかに仕方がなかった。──
2022/09/21
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