~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-01)
笹島画伯の葬儀は、翌日の夕方に行われた。
画伯は独身だったので、絵描き仲間が寄り合って、一切の葬式の準備をしてくれた。自殺のことは新聞にも出たので、かなりの数の会葬者が集まった。
生前の彼の性格を愛している人間が意外に多かったのだ。絵も特異なものだったし、当人と交際のなかったファンも参列した。
笹島画伯の自殺の現場に立ち会った警官は、鈴木すずきという警部補だった。警部補は画伯宅に来て、会葬者たちをこっそり見守っていた。
そのうち、警部補は、二十一、二くらいの若い女性を発見した。その顔を見て、警部補は黙ってひとりでうなずいた。スケッチ・ブックに描きかけの少女の顔にそっくりだった。
「お嬢さん」
鈴木警部補は、その若い女性に近づいて、こっそり声を掛けた。
「こういう者です」
と彼は名刺を出して相手に見せた。
「少し笹島先生のことでおたずねしたいのです。済みませんが、こちらへ来ていただきませんでしょうか」
その女性は名刺を見ると、素直に黙って別間について来た。
告別式場は広いアトリエが使われていたが、その混雑と違って、この部屋には誰も居なかった。警部補は改めてその女性と対い合ったが、彼女は育ちがいいと見えて、少しも悪びれない。落着いた態度でいた。
「笹島先生とは、以前からのお知合いですか?」
警部補は、この女性に好感を持ったので、なごやかな微笑で話すことが出来た。
「いいえ。そうではございません。最近になってからです」
娘は眼を少し赤くしていた。泣いたあとなのである。
「お名前を聞かせていただけますか?」
「野上久美子と申します」
彼女は、住所と自分の勤め先を言った。
「ああ、そうですか。するとお勤めの方は?」
「はい、今日は先生のお葬式なので、早退はやびけして参りました」
「最近のお近づきだというと、何か先生のお仕事に関係したことですね?」
「はい、先生はわたくしの顔をデッサンしていらっしゃいました」
鈴木警部補は、その返辞を予期していたので、微笑を見せた。
「それは、どういう御関係からですか?」
「笹島先生のお知り合いの方から、わたくしの母に話があったのです。それで、五日ばかり前から先生のお宅に伺っています。モデルというほどではございませんが」
久美子は答えた。
「では、お嬢さんは、その前は笹島先生を全然御存じなかったわけですね?」
「はい、その時お会いしたのが初めてでございます」
「笹島先生が突然こういうことになって、お嬢さんもびっくりなさったでしょう?」
「はい」
久美子は俯向うつむいた。その表情を、警部補は見ていた。
「笹島画伯の自殺の原因は」
警部補がおふぁやかに言い出した。
「遺書が無いので、われわれにはちょっと見当がつかないのです。御承知のように、画伯は独身で、家族といった方はどなたもおられないので、事情を知るのが大変困難なのです。通いの家政婦の人がいますが、この人は何も知っていません。お嬢さんがモデルに通っていらしたというなら、画伯の自殺の原因について何か心当たりはありませんか?」
「いいえ、何も存じません」
その返事を警部補は真実だと受け取った。
「では、笹島先生がお嬢さんをモデルにしたいと言われたのは、どういうつもりからですか?」
「わたくしにはよくわかりません。ただ、何か大作をおやりになるのに、その一部の人物の習作にわたくしをお選びになった、と聞いています」
「そのお話はお母さまからですか?」
「そうです。母からその話があったので、わたくしが勤めを休み、三日というお約束で伺っていました」
「なるほど、それで、デッサンの方は着々と進んでいたのですか?」
「はい、毎日、何枚かお描きになりました」
「何枚か? では、全部で相当の数になったわけですね」
「はい」
「大体、何枚ぐらい、画伯はお嬢さんをスケッチしましたか?」
「よく憶えていませんが、少なくとも八枚はあったように思います」
「八枚ですか」
警部補は考え込んでいる。
「その絵は、すぐに人に上げるとか、売るとかするようなつもりではなかったんでしょうね?」
「それはありません。どこまでも大作のためのデッサンだと聞いています」
「実はね」
警部補は困ったような顔をした。
「笹島先生のところには、あなたのデザインが残ってないんですよ。描きかけのものが一枚あるだけです。あなたは、先生が確かに八枚は描いたと言ってらっしゃる。けれど、それがどうしても見つからないのです。まさか画伯が破り捨てたとか、燃やしたとかいうようなことはないでしょうから、どこかに行っている筈ですがね」
久美子にはそれは初耳だった。あれだけ熱心に描いたデザインだし、それが画伯にとってまんざらの出来でなかったことは、描いた絵を久美子に少し得意そうな表情で見せてくれたことでも分かる。
2022/09/22
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