~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-02)
久美子は考えるような遠い眼つきをした。八枚の絵はどこに行ったのであろう。もし、この警部補が疑っているように誰かの手許に廻ったとすると、不愉快な話だった。
画伯との約束は、その作品の中に入れる一人物のために素描だった。他人に渡す約束ではなかった。
だが、その八枚の絵が無くなったとすると、警部補が疑っているような場合が考えられる。しかも、それは、画伯の自殺の直前でなければならぬ。死んだあとに勝手に持ってゆく人間は居ないからである。
「これは家政婦に訊いてもわからないんですよ」
と警部補は言った。
「その家政婦は、朝八時頃に来て、夕方には帰ってしまうんです。もう四、五年もそうしているので、画伯の身のまわりのことについては全部知っている女ですがね。それがあなたの素描のことは全部知らないと言っているんです。尤も」
と警部補は一応区切った。
「あなたがモデルに通われる三日間、笹島画伯は、どういうわけか、通いの家政婦をことわってらっしゃるんですよ」
久美子は、それで思い出した。彼女が最初に画伯の家を訪ねた時、画伯が直接にドアを開けてくれたが、あとで五十歳ぐらいの家政婦がお茶を運んで来た。制作の都合でしばらく家政婦に来ないように断わったと、その時久美子は画伯から聞いている。
「つまり、家政婦の来ない間に、あなたがモデルに通ってらしたわけですが、そのとき、何か変わったことはありませんsでしたか?」
警部補は、久美子の顔を眺めながら訊いた。
久美子は考えた。
久美子が笹島画伯を知ったのは、挨拶に行った最初の日をべつにすれば二日間だけだった。三日という約束だったが、最期の日に来てみると、ドアが閉まっていた。仕方なく、そのまま帰ったのだが、死の時すでに画伯は生命を失っていたのである。前日、別れる時も、画伯の態度は明るかった。自殺を予想させるようなところは少しもなかった。絵も愉しそうに描いていたし、別れ際に見せた彼女への態度も、前々日と変わりはなかった。独り者だったが、暗いかげはなく、むしろ愉しそうだった。
久美子がそのことを警部補に話すと、警部補はうなずいた。
「では、画伯があなたを描いていらしたあいだは、ずっとお二人だけだったわけですね?」
「ええ」
食事も、紅茶も、みんな画伯の手でサービスされたのである。確かに室内には二人だけだった。
ふぁが、ふと、久美子は思い出した。家の中は二人だけだったが、外には、もう一人居た筈だった。
花壇の間にちらちらと動く雑役夫のような男が居た。絵を描いている時、そのカーキ色のシャツが陽に輝いていたのを憶えている。
久美子が話すと、警部補は、その話にひどく興味を持ったようだった。
「その男は、どんな人間でしたか? 年齢なんかどうです?」
と訊いた。
「そうですね、よくわかりませんが、かなり年取った方のように思います」
「なるほど、顔なんかどうです?」
「さあ」
久美子は迷った。そう訊かれると、はっきりと思い出さない。いや、思い出さないというのではなく、絶えず久美子に背中を向けていたからだとわかった。その人が年輩だったことは、そののろい動作や身体つきで察していたのである。
そう言えば、その人は画伯のものらしい古い登山帽を被っていた。明るい陽射しの中だから、長いひさしが陽を遮って、その人物の顔は暗い影になっていた。
「それで、その人相がわからなかったわけですね?」
と警部補は話を聞いて反問した。
「はい、よくわかっていません」
「その雑役夫と笹島画伯とは、話をしましたか?」
「いいえ、わたくしが居る間は、会話はありませんでした。その人は、いつも花壇の手入れをしていたようですから」
「では、あなたと画伯の坐っている場所と、その男とは離れていたわけですね。画伯の所には来なかったわけですね」
「ええ、一度も来なかったように思います」
警部補は久美子に、ちょっと待って下さいと、断わって出て行った。そして戻って来るまでに、二十分ぐらいはたっぷりとかかった。
2022/09/22
Next