~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-03)
「今、家政婦の人に訊いたんですがね」
と警部補は、失礼しましたと詫びてから言い出した。
「どうも、そんな人物はこの家に居なかったというんですよ。あなたがその男を見たのは、あなたがモデルとしてこの家に来た最初の時からですね?」
「そうなんです。わたくしが伺った時に、もうその人は居ましたわ」
「そうですか。すると笹島画伯は、家政婦を断わっている期間に、その雑役夫を雇ったわけですな」
これは久美子に言ったのではなく、独り言のように自分でつぶやいていた。
久美子は、何故、警部補がこんなことをくどくどと訊くのだろう、と思った。笹島画伯の自殺に不審を持ったのであろうか。
「お訊ねしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
と警部補は視線を彼女に戻した。
「笹島先生が亡くなられた原因に、何か不明瞭ふめいりょうなところがあるのでしょうか?」
その時、警部補はためらうような表情を見せた。が、結局、話した方がいいと思ったのであろう、久美子の問いに答えた。
「笹島画伯は、睡眠剤を多量に飲んで、そのために亡くなったのです。それは、死体を解剖して、その所見からでもはっきりとしています。実際亡くなられた時に、枕元には睡眠薬の大瓶が空っぽになって転がっていました。だから、睡眠薬を飲んで自殺されたということは、辻褄つじつまが合うのです」
と警部補は言った。
「睡眠薬は自分で飲んでいるのです。枕元に水を飲んだあとの空コップが置いてあったが、それにははっきり笹島画伯だけの指紋が残されていました。また、睡眠薬の大型空瓶にも画伯の指紋が付いている。われわれは入念に鑑識検査をしたのですが、他にも第三者の指紋は付いていないのです。それと、他人に無理に飲まされたとなると、これはだまされて飲むほかにケースが考えられない。その場合は、大抵、ビールに混ぜるとか、ジュースなどの飲み物に混ぜて飲ませるとかいうことになるのですが、画伯の胃からは、そのような検出物は無かったのです。明らかにその睡眠薬と一緒に飲んだと思われる少量の水しか出て来ない。やはり画伯が自分の意志で睡眠薬を飲んだことになっています」
「すると、先生は睡眠薬を誤って多量に飲み過ごされたのでしょうか?」
「そういう場合はよくあります。平生から、睡眠薬を飲む習慣の人はどうしても次第に量が多くなっています。家政婦について調べますと、画伯は大体、八、九錠くらいを飲んでいたようです。ところがですね」
と警部補は表情を改めたように言った。
「解剖した医者の所見によると、画伯が飲んだ量は、とても十錠や十五、六錠ぐらいではない。百錠以上も飲んだほどの量だったというのです。八、九錠飲む人が、間違えて十四、五錠ぐらい飲むということは、まあ考えられますが、百錠も飲むということは、絶対に考えられない。ですから、その飲み方にも疑問があるわけです」
久美子は、そのようなことを聞かされても返事に困った。笹島画伯との付き合いは、たった三日間にすぎない。久美子の真向いに坐って、ときどき眼を細めながら、遠くを見るような視線で彼女の顔を眺め、鉛筆を動かしている画伯の知識しかなかった。警部補もそれに気づいたのか、話題を変えた。
「それでは、お嬢さんは、その雑役夫のような男は、全然、顔も憶えていらっしゃらないわけですね」
と言った。話を変えたと言うよりも、そのことに念を押したと言った方が近い。
「はい、よく憶えていません」
久美子はきっぱり答えた。
「おかしいな。家政婦も今までそんな人を雇ったのを見たこともない、と言っています。つまり画伯が、なぜ三日間だけ家政婦を断わって、その雑役夫を雇ったのか、その理由が分からないのですよ」
警部補は彼女の顔を凝視して言った。
2022/09/23
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