~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-04)
久美子が家に帰ったのは、街に灯が入ってからだった。
玄関の格子戸を開けると、その物音を聞いて、母が奥からあわてて出て来た。
唯今ただいま
と彼女が言うと、母は、
「そのまま、上がらないで。玄関の外に戻ってらっしゃい」
と手でとめた。久美子がその通りにすると、母は手に握った塩を彼女の肩に薄くばらいた。母には、そんな古風なところがあった。
「御苦労さま、さあ、入ってらっしゃい」
そのあと、母は久美子に、
「節子さんが来てるのよ」
と言った。
「そう」
奥の間に入ると、節子が、庭にむかった縁側近くに座布団を敷いて坐っていた。今日は和服でなく洋装だった。
「いらっしゃい」
「今日は」
節子は久美子に微笑わらいかけた。
「大変だったわね」
「ええ」
母も節子と並んで坐った。自然と三人が一緒の位置になった。
「節子さんがね」
と母が久美子に取次いだ。
「新聞を見てびっくりして、飛んで来たんですって」
節子は久美子が笹島画伯のところにモデルになって通っていることを母から聞いていた。だから、笹島画伯の自殺と聞いてすぐにやって来たのであろう。
いつも三人で逢うと笑い顔ばかりになるのだが、今日は、みんなが硬い顔になっていた。
「どうでした?」
と母が久美子に訊いた。
「ええ、お葬式、とても賑やかでしたわ」
久美子は、手短にその模様を話した。
「そう、それはいいけれど」
と母は肩で溜息をついた。
「そんなにお友達の方がお集まりになっても、笹島先生の自殺の原因は分からないの?」
「ええ、それは皆さん、何もおっしゃいませんでしたわ。だけど、久美子、警察の方に呼ばれたの」
「警察の方に?」
これは、母も節子も一緒に久美子の顔を見つめたことだった。
「わたくしが笹島先生のモデルになっていることを警察の方は知ってらしたらしく、先生の自殺に心当たりはないかと訊かれたんです」
久美子は手短に鈴木警部補との問答を話した。母も節子も息を詰めて聞いていた。
「そう、じゃ、警察では、笹島先生の自殺に合点のいかないところがあると思ってつのかしら?」
母は言いながら久美子から節子に視線を移した。思いなしか、節子は顔色を悪くしていた。
「それはよくわかりませんわ。でも、その警察の方の話の具合では、自殺にしては不自然なところがあるような言い方でした。あ、それに、言い忘れてたわ。先生のところには、わたくしのデッサンが描きかけの一枚だけで、あとは全部、残ってなかったんですって。警察の方は、先生が何枚描いたのか、と念を押して訊かれるので、八枚でしょうと言うと、その八枚がどこに行ったかわからないって、気にしていらしたようでしたわ」
「どうしたんでしょうね?」
母は顔を曇らせた。
「その行方がどうしてもわからないんだそうです。先生がどなたかに差し上げたとすると。わたくし、何だか気になるわ。だって自分の顔ですもの。知らない方のところに行ってると思うと、気持がよくないんです。それにあれは先生の絶筆と言ってもいいでしょ。ですから、余計に気持が落着きませんわ」
「誰のところに行ってるんでしょうね?」
母は久美子より節子の方に向って、相談するように言った。すると、節子の顔色は前よりももっと悪くなっていた。
「久美子さんが見たという雑役夫の人、よく顔がわからなかったの?」
母は久美子の話からそのことも訊ねた。
「ええ、それは警察の方から何度も訊かれたんですけれど、憶えてませんわ。登山帽みたいな、長いひさしの付いた帽子を被って、いつも花壇の蔭にうずまっていたんですもの、わかりようがないわ」
「その人、家政婦の来ない間だけ来ていたわけね?」
と節子がはじめて口を入れた。
「ええ、警察の人がそう言ってましたわ。家政婦さんは一度も見たことがないんですって」
母と節子は顔を見合わせていた。
節子は黙っていたが、母は肩をよせていた。
「どういうのでしょうね?」
と独り言のように呟いた。
「叔母さま」
節子は久美子の母に向って言った。
「久美ちゃんをモデルにしたいっていう笹島先生のお話ね、それは滝さんからの紹介だっていうことでしたわね」
「ええ、そうよ」
母は眼を上げた。
「では、笹島先生の自殺のことでは、早速滝さんに電話なすったの?」
「ええ、すぐにお宅にお電話したわ。そしたら、滝さん、お留守なの」
「それっきりお電話なさらなかったの?」
「そうじゃないの、滝さんは昨日きのうの朝から御旅行なんですって。だからどうしようもなかったわ」
「昨日の朝だというと、笹島先生の死体が発見されたころね?」
「そうよ」
母は、そんな言い方をする節子をうかがうように見ていた。
「それだと、滝さんは笹島先生の自殺をご存知ないわけね?」
「そういうことになるわ」
笹島画伯の自殺が新聞に出たのは、昨夜の夕刊だった。だから滝良精氏が旅行に出発委する時には、特別な連絡がない限り、何も知らないことになる。尤も、彼は旅行先でも新聞を見ているに違いないから、現在はわかっている筈だった。画伯の死亡記事は、地方紙でも載せているに違いない。
「どこに御旅行なさったか、行先は分からないかしら?」
節子は言った。
「それは、わたしも先方に伺ったわ。電話口には奥さまがお出になったけれど、行先をはっきりおっしゃらないのよ」
「そう、それは妙ね。奥さまも御存じないのかしら?」
「いいえ、これはわたしの印象だけれど、何かおっしゃりたくないような御様子だったわ。だからこちらからもご遠慮して、それ以上は訊かなかったけれど」
「個人的な旅行かしら? それとも世界文化交流連盟の仕事での出張かしら? もし、お仕事での出張だったら、連盟の事務所に訊けばわかるわけね」
「節っちゃん」
久美子の母は言った。
「あなた、どうして滝さんの行先が気にかかるの?」
「だって」
と節子は叔母を見返した。
「久美ちゃんを笹島先生に紹介したのは滝さんでしょ。だから、笹島先生の自殺を旅行先の新聞で読んだら、電報か長距離電話かで何かお問合せがある筈よ。久美ちゃんを紹介した責任がありますからね」
節子の言い方は筋が通っていた。
「そうね、滝さんは、まだ、笹島先生のことをご存知ないのかしら?」
母は節子の言い方に負けたように呟いた。
久美子は、母と節子の話のやり取りを黙って聞いていたが、節子が何かを必要以上に滝氏の留守を気にしているのは、耳にさわった。
久美子は、従姉の顔をそっと見た。びっくりしたのは、その節子の顔が蒼ざめて見えたことである。
2022/09/23
Next