~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-05)
節子が気にかけていた滝氏からの便りは、それから四日目の十月三十日になってようやく来た。
それは、久美子が勤め先に出勤してしばらく経ってからだった。だから、十時すぎだったろう。母から電話があった。
「滝さんからね」
と母の声は少しあわてていた。
「今、お手紙いただいたんだよ。久美子が家に帰るまでにそのままにしていようかと思ったけれど、なんだか早く知らせたくなって、電話をしました」
「そう。どんなこと?」
久美子も胸が騒いだ。
「では、今から読みますよ」
と母は電話で手紙の文章を言った。
「その後御無沙汰しています。旅先の新聞で、笹島君の自殺を知りました。思いがけないことです。久美子さんを笹島君にモデルとして御紹介したの小生としては、今度の事件で久美子さんにかなりに衝動を与えたのではないかと恐れています。しかし、もちろん、笹島君の自殺は、他によってきたる原因があったと思われますので、この事件のことには御放念あるよう、切にお願いいたします」
母は、そこまで読んで、
「こういう文面だったわ。そして発信地は信州浅間あさま温泉にて、とあるだけだわ」
「信州浅間温泉?」
久美子は、おうむ返しに訊いた。
「ええ、ただそれだけ。旅館の名前も何も書いてないわ」
「そう」
滝氏のその速達を読んでもらっても、久美子にはすぐにどうという返事は出来なかった。
「どうもありがと」
「今日は早く帰って来んでしょうね?」
母は、そう訊いた。
「ええ、なるべく早く帰ります。ちょっと寄り道するかも知れないけれど」
久美子がそう付け加えたのは、ふと、添田に逢ってみたいと考えたからである。それだったら、帰りの時間が少し遅くなる。しかし、母には添田に逢うことは言わなかった。
「なるべく早く帰っていらっしゃい」
母は、そこで電話を切った。
久美子は、そのあとちょっと仕事が手に付かなかった。母が読んでくれた、滝氏の手紙の文句が頭から離れない。それと、この間節子が来た時に言った言葉とが重なった。
落着かなかった。このままの気持で帰りまで仕事をするのが辛かった。久美子は思い切って新聞社に電話した。添田は居た。
「先日はどうも」
添田は久美子の家へ遊びに行った時の礼を言った。あれからもう二週間以上になる。
その後添田は逢ってないので、彼には久美子が笹島画伯のモデルになっていたことは話してなかった。
「すぐお目にかかってお話ししたいことがあるんです。よろしかったら、こちらの方は十二時から一時までお昼休みなんです。近くでお目にかかりたいわ」
「承知しました」
と添田はこたえた。
「恰度、ぼくもその方面に用事があるんです。三十分ぐらいでしたらお話しが出来ると思います。そちらの近所の喫茶店ででも待ちましょうか?」
「そうして下さい」
喫茶店の名前を言って、久美子は電話を切った。添田と逢うのを夕方まで持ち越さなくてよかった、と思った。
十二時過ぎに、久美子が役所を出て、近所の喫茶店に行くと、店の前に新聞社の自動車が置いてあった。
添田は、入ってすぐのボックスでジュースを飲んでいた。
「何ですか、急に呼び出したりして」
久美子の顔がちがって見えたので、添田は微笑わらいかけた眼を消した。
「添田さんは、二十五日の夕刊に出てた、笹島さんっていう絵描きさんが自殺した記事をご覧になったでしょ?」
「ええ、そう言われると見たよう思いますね」
「実は、そのことなんです。添田さんにはお話しする間がなかったんですけれど、本当は、わたくし、その笹島先生のところに絵を描いていただきに二日ばかり通いましたの。恰度、先生の亡くなる前の日、いいえ、本当は、その当日もうかがったんです」
「なんですって?」
添田は、ストローを放し、眼をむいた。
それからの添田は熱心な顔つきになった。久美子が話したことをもう一度聞き直し、ところどころ質問した。
最後に、久美子が滝氏の手紙のことを言うと、添田はそれにも真剣な表情を見せた。
「笹島さんの描いた久美子さんの絵は、確かに八枚あったわけですね。それが描きかけの一枚しか残っていなかったというんですね?」
彼は髪の毛をごしごし掻いて訊いた。
「ええ、そうなんです。警察の方からも、それをしつこく訊かれましたわ」
「絵が気に入らなくて、笹島さんが破いたり燃やしたりしたのではなかったとは、ぼくも思いますよ。やはり、誰かの手に渡ったに違いありません。これは調べてみる必要がありますね」
「調べる?」
久美子はびっくりした。
「わたくしの存じあげない方のところに自分の絵が行ってるのが、少し気持が悪いだけですわ。そんなことを調べていただかかなくてもいいわ」
「あなたはそうかも知れませんね。だが、これは調べてみた方がいいと思います」
「でも」
「いや、あなたに関係なしに、ぼくがやってみたいことですよ」
と添田は久美子の言葉を押えた。
「ところで、その絵は久美子さんによく似ていたでしょうね?」
笹島画伯は具象画の方だった。そして、写実風の絵に徹して、その道を永い間歩いて来た人だった。久美子をモデルとして描いたなら、それは当然久美子によく似ていなければならない。
「ええ」
久美子はうなずいた。
「わたくしが見ても、そのデッサンがとても自分に特徴が似ていて、恥ずかしいくらいでしたわ」
「そうでしょうね。ぼくもその一枚を見たいくらいですな」
2022/09/24
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