~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (09-06)
久美子と別れた添田は、そのまま車を真っ直ぐに世界文化会館に向けた。
会館は、高台の閑静な一郭にある。世界各国からの訪問客を迎えることが多いので、建物は近代的な立派なものだった。付近には外国の公使館などがある。
添田は、車を玄関に着けた。
重い廻転ドアを押して中に入った。すぐに広いロビーがあり、受付が片隅にあった。恰度、ホテルのフロントのように、長いカウンターで仕切られていた。
添田は、その前に近寄った。そこには白い服を着たボーイが二人立っていた。それとは別に、蝶ネクタイをつけた年輩の男が事務机にかがみこんでいた。
添田は名刺を出した。
「滝さんのことで伺ったんですが」
ボーイよりも事務を執っていた男の方がその声を聞いて先に起ち上って来た。
眼鏡を掛て短い髪を蓄えている四十前後の男だったが、名刺と添田の顔を見比べていた。
「滝さんはご旅行だそうですが」
添田が言うと、その男は驚いたような顔をしていた。
「そうです」
「滝さんの、ご旅行のことで伺いに来たのですが」
すると、その蝶ネクタイの男は、
「随分、早いですね」
と不用意に言った。
その言葉を聞いて、添田の方がびっくりした。これは何かある、と、新聞記者らしく直感した。習性で、とっさにその感情は顔色に出さなかった。
「お話を伺えますか?」
蝶ネクタイの男は名刺を見た。肩書の新聞社名は一流新聞なのである。明らかにその男は困った顔をした。
「お忙しいところを済みませんが、ぜひ、お話を聞きたいのですが」
蝶ネクタイの男はすぐに返事をしなかったので、添田は付け加えた。
「滝さんが浅間温泉に行ってらっしゃることはわかっているんです。滝さん自身のお話を聞くのには、ちょっと時間がかかります。その前に、ぜひ、こちらのお話を伺いたいのですよ」
「このハッタリとも思える言葉が功を奏した。蝶ネクタイの男は諦めたように、
「では、ここではちっとお話ししにくいですから、こちらへどうぞ」
と、自分でカウンターの中から出て来た。添田は胸が鳴った。
蝶ネクタイの男が添田を誘導したのは、純日本式の広い庭を見渡せるポーチだった。
泉水に陽が光っている。付近には、外人の家族連れが一組、テーブルを囲んでいるだけである。植込みが繁って、人の顔が蒼く見えるくらいだった。
「どうぞ」
その男はまた添田に感嘆して言った。
早耳 ── その意味を添田は瞬間に分析した。何かあったのだ。しかも、それは滝良精氏の身分の上に起こった変化である。そう推測するのに時間はかからなかった。
「滝さんはどうしておめになったんですか?」
添田はまたヤマをかけた。しかし、これは自信があった。
果たして対手あいてはその言葉に釣り込まれた。
「ぼくらにもよく分からないのです」
と迷惑そうに白状した。
「なにしろ、滝さんは旅行先から辞表を送って来られましたのでね」
「ははあ」
と言ったが、添田の方がかえって面喰めんくらった。
「そ、それは、どういう理由ですか?」
と思わずどもった。
「理由は、健康を害しているから、この辺で暇が欲しい、ということです。それも手紙の上ですから、訊き返しようがありません」
「失礼ですが」
と添田は気づいて訊いた。
「あなたさまは、こちらの?」
「庶務の方をやっています。主任です」
「はあ、それはどうも。で、滝さんが郵送された辞表をご覧になって、すぐに先方に電報なり長距離電話なりして、真意をお確かめになりませんでしたか?」
「それが、どうにも連絡がつかないのです」
と、庶務主任はいよいよ困惑した表情を見せた。
「手紙にはただ、信州浅間温泉にて、とあるだけです。そんな具合で、どこの旅館に泊まっているやら、さっぱり見当がつきません。これでは電報も打ちようがないわけです」
添田はそれを聞いて、滝氏だ出した辞意の手紙は、久美子の家に出したと同じ方法だと知った。両方ともに滝氏は滞在している旅館名を書いていない。
「その辞意のことは、前々から滝さんは洩らしておられたのですか?」
「いや、正直のところ、今までそういうことはなかったのです。ですから、あまり突然なので、余計に面喰っている状態です」
「健康の方は?」
「そうですな、滝さんは、あれで丈夫な方ですからね、これまで一度も病気で休まれたことはありません。ですから、辞表に書いてある理由はちょっと考えられないのです」
「では、病気は表向きの理由として、滝さんが辞められるような原因に心当たりはありませんか?」
「全然ありません。滝さんは、むしろこちらに来ていただいてから非常に連盟の仕事の実績が上がているのです。われわれとしても、ぜひ、いつまでも居ていただきたい方ですが、今度のことは全く寝耳に水で、弱っているのです」
これだけ聞けば十分だった。添田は挨拶して起ち上がった。
「添田さんとおっしゃいましたね?」
と庶務主任は後ろから言った。
「このことは、まだ表向きにしたくないのです。滝さんの処置が決定するまで、今の段階では新聞に発表されては困るのです。どうかしばらく伏せておいていただきませんか」
「わかりました。御安心下さい。今すぐに出すようなことはしませんよ」
添田は、微笑で対手に安心を与えた。
添田の眼には、自分を嫌っている滝精良氏の顔が泛んだ
2022/09/25
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