~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (10-01)
添田彰一は社に帰った。
滝良精氏が世界文化交流連盟の理事を辞めたところで、ニュースにはならない。連盟は言わば文化団体だから、それほど社会的に比重があるわけではなかった。ただ、滝良精氏はこの新聞社の前幹部だったから、社に多少のつながりがないわけではない。が、たとえそれがニュースとして多少の価値があっても、添田は誰にも話さないつもりだった。
添田は、滝氏が浅間温泉のどこに泊まっているか、突き止めたかった。まさか、封筒に書いた、その温泉の名前まで嘘とは思えない。
添田は、通信部に行って、松本支局を呼び出してもらった。十分ほどすると、それはすぐにかかった。
電話に出たのは、添田の知らない人だが、まだ若い声だった。黒田くろだというものです、と先方では名乗った。
「少々、面倒なことをお願いするのですが」
添田は、前置きした。
「どうぞ、どんなことでしょうか?」
浅間温泉に泊まっている、ある人を突き止めたいのです」
「承知しました、浅間温泉ならここから近いし、始終、連絡がありますから、わけはないです。どこの宿に泊まっている人ですか?」
支局員は訊いた。
「その旅館の名前がわからないのです。それがわかるといいんですが、こちらに手がかりがありません。浅間温泉には、旅館がどのくらいありますか?」
「そうですね、二、三十軒ぐらいあると思います」
「そんなにあるのですか」
「尤も、一流旅館といえば、数は限定されていますがね。その人は、やはりいい宿に泊まっているのでしょうか?」
普通ならそうだ。しかし、何か東京を逃げるようにして浅間温泉に行った滝良精氏だから、わざと二、三流館に投宿している可能性も考えられた。
「その点は、はっきり分かりません」
「そうですか。その方の名前は?」
滝良精、と口まで出かかったが、添田は、それを呑み込んだ。この人の名前なら、社の前幹部として若い支局員も知っているに違いなかった。その名前をここに持ち出すのはまずい。それに、どうせ滝氏が本名で投宿しているとは思えなかった。
「名前は変えて泊まっていると思います。どういう名前にしているのか見当がつきませんが、大体の人相で心当たりを探して頂けませんか?」
先方ではちょっと困ったというような感じで、声が跡切とぎれた。
「もしもし、お忙しいでしょうが、何とか協力を願えませんか」
「はあ、それはいいのですが、どうも旅館名も御本人の名前もわからないのでは、手間取るかもわかりませんね」
黒田という支局員は、ちょっと参ったような声になった。
「いや、その点は申し訳ないのですが」
と添田は謝った。
「しかしこちらでは、ぜひ探して欲しいんです。これから人相を言いますから、それで旅館に当たって頂けますか?」
「そうですね。まあ、おっしゃってみて下さい。出来るだけ手を尽くしてみます」
「ぜひお願いします。では、その人の特徴を言います」
添田は、滝良精氏の年齢を言い、眼に、その顔を泛べながら、髪の形、全体の感じ、眉、眼、鼻、口、それぞれを描写して説明した。先方では、添田の言うことをメモしているらしく、受け答えの声が遠かった。
2022/09/25
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