~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (10-02)
「わかりました」
と支局員の声はまたはっきりとした。
「それで、突きとめたら、早速、あなたの方に報告するのですか? それとも、こちらの方で何か手を打つことがあるのでしょうか?」
「いや、それは、判ったら、そっとしておいて欲しいんです。それから、大事なことは、旅館に訊き合わせても、本人には、知らせないようにして欲しいのです」
「わかりました。では、早速、今から電話で方々に当たってみましょう。結果がわかったら、すぐ折り返して、あなたの方に御返事しますよ」
支局員は、もう一度添田の名前を確かめて、電話を切った。
添田は、自分の机に戻った。松本支局から電話がかかって来るのは、二、三時間のあとかも知れない、その間が落着かなかった。
政治部長は来客と自分の席で話している。この部長は、滝氏のかつての気に入りの部下だった。今度のことを部長に聞かれては拙い。わざと通信部に行って電話を支局にかけたのも、すぐに電話が通じるせいもあったが、一つは部長に話を聞かれたくなかったからである。
この間、部長は添田に注意したことだった。添田が、戦時外交の秘話を取材している、と聞いて、そういうものは止めた方がいいというのだ。添田にはそれが部長の単純な意見とは思えなかった。滝良精氏に会ってすぐ後だったし、滝氏が不快がっていただけに、滝氏からの連絡で、部長が、添田を止めたような気がする。
中立国で病死した一等書記官野上顕一郎のことを、滝氏は明らかに触れたがらないのであった。その話を取りに行った添田を警戒した態度でで、それは分かった。部長の添田への注意は、何となく滝氏が手を廻したという感じがする。
部長が、突然、大きな声で笑い出した。客が起ち上がりかけていた。その時、添田の後ろに通信部の若い人が急いで来た。
「松本の支局から呼んでいますよ」
添田が、通信部に歩きかけると、部長の顔が、ふと、こちらを向いた。添田は、部長にじろりと見られたような気がしたが、部長が知るわけはなかった。
通信部の電話機を取ると、先方ではすぐに話し出した。やはり同じ声だった。
「どうにか、それらしい人物が泊まっている宿がわかりましたよ」
「そうですか。どうも」
添田は胸が鳴った。
「御本人かどうか。はっきりわかりませんがね、大体の人相を言うと、そういう方がお一人で六日前から滞在していらっしゃる、ということです」
一人で泊まっていると聞いて、添田は、もう間違いないと思った。
「何という旅館ですか?」
「杉の湯というのです。浅間温泉でも飛び切りというわけでもありませんが、まず一流の方でしょう」
「なるほど、そして、宿帳には何と名前が書いてありましたか?」
山城静一やましろせいいちという人で、年齢は五十五歳になってます。職業は会社員とあり、住所は横浜市鶴見つるみ区××町とあるそうです」
若い支局員は告げた。
2022/09/26
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