~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (10-04)
話が混み入ると見たか、番頭の方が気をかせて、
「まあ、どうぞ、こちらへお上がりください」
と勧めた。それは、玄関脇の応接間にたいな所だった。客をちょっと待たせるための用のもので、テレビなどが置いてある。壁には観光写真が飾られてあった。
「どうも、御迷惑かけます」
客ではないので、添田は恐縮して話を聞きにかかった。女中はむかの椅子に居心地悪そうに坐っている。
「あれは、昨夜の八時ごろでしょうか」
と女中は言った。
「恰度、わたしが玄関で下駄を揃えていますと、男だけのお客様が見えました。どちらも三十過ぎぐらいの人で、ひどく体格のいい方でした。それがやっぱりあなたさまと同じように、人相など言って、そのお客さまはこちらに泊まっていないか、と訊くんです」
「なにっ、人相を訊いたのですか? で、お客さまの名前は言わなかったのですね」
「はい、そうです。自分の友達だが、名前をかくして泊まっているかも知れない、と言ってお訊きになるので、わたしは心当たりがあったのですが、一応、お伺いして来るから、と言って、お泊りのお客さまの所に行ったんです」
「なるほど」
「すると、そのお客さまは、とてもびっくりしたような顔をなさって、しばらく考えておられました。そして、思い切ったように、では、ぼくが玄関に行って直接会うからとおっしゃいました。そして、御自分で、玄関の前に立っている、そのお二人にお会いになったんです」
「そのとき、どちらも顔見知りのようなふうでしたか?」
「いいえ、うちに泊まっていらっしゃるお客さまの方はご存じないような顔でしたが、先方では知っているようなふうでした。そこで、二人連れのお客さまの方で丁寧にお辞儀をして、ちょっとお話しをしたいから上らせてくれ、というようなことでした。泊まっている方のお客さまは、どうぞ、と言って、それから部屋に通されました」
「なるほど、それからどうしました?」
「それから、わたくしはお茶を三つ持って行ったのですが、廊下では、ちょっと激しい声が聞こえて来ました」
「激しい声、と言うと?」
「はい、こんなこと言っていいかどうか分かりませんが、何か言い争いみたいなふうでした。わたくしも悪いので、どうしようかと思って迷いましたが、結局、思い切ってふすまを開けますと、中の声はぴたりとみました。そして、わたくしがお茶を配っている間、三人ともひどく気まずそうな顔で、わたくしが出て行くのを待っているようなふうでした」、
「ちょっと待って下さい。あなたが廊下で聞いた時の言い争いみたいな話というのは、どんな内容でしたか?」
「それは訪ねたお客さまの方が、おもに話しておれれたようですが、わたくしもちょっと聞いただけなので、よく憶えていません。なんでも、勝手にこういう所に逃げるように来るのはしからん、というようなことでした・・・」
添田は、それは重大なことだと思った。滝氏を訪ねて来た三十恰好という男の正体はわからないが、滝氏がここに来ているのを逃げたと解釈して詰め寄っているのは、一体、どういう理由わけであろうか。よほど滝氏とは特殊な関係でないと、そういうことは言えない筈である。しかも、女中の言うことによると、玄関で会ったときの滝氏は、二人の顔を知っていないようなふうだったという。
「それからどうしました?」
添田は、あとの話をたたみかけた。
「いいえ、それっきりでございます。わたくしもあまり長くお部屋にお邪魔しては悪いと思って、逃げるようにして階下したに降りてゆきました。それからあと、どんな話があったか皆目わかりません」
「そうですか。で、その客は、長いことお客さんの部屋にねばっていましたか?」
「いいえ、それほどではありません。三十分ぐらいもいらっしゃったでしょうか。ほどなく、二人は階段を降りて玄関に出られました」
「その時、部屋のお客さんも一緒でしたか?」
「はい、見送りのために、玄関まで付いて来られました」
「そのときの様子は?」
「はい、別段変わったこともなく、普通にお客さまを送り出す時の態度でした。でも、三人とも話しはなさりませんでした。二人の人が帰って行く時に、お互いに目礼されただけだったと思います。その一人の方は、どうもお邪魔をしました、と言っていましたが、なんだか、その声は、わたくしたちの前を取りつくろってるようにも聞こえました」
係の女中は、その時の様子を思い出すようにして、しゃれた声で話した。が、ふと気づいたように、
「そうそう、その時のお泊りのお客さまの様子は、とても変な顔をなさっていました」
「変な顔といいますと?」
「蒼い顔色でした。そして、不機嫌そうに、すぐにお部屋の方にお帰りにないました」
「あなたは、それから部屋のお客さんと会わなかったんですか?」
「いいえ、それは会いました。後片づけやら、お床の用意やらのために伺いました」
「その時、お客さんはどうしていました
「はい、部屋の窓際に縁側がありまして、そこに籐椅子が据えてあります。お客さまはその籐椅子に腰を下ろし、ぼんやり外の方を眺めていらっしゃいました。わたくしがそこを片づけたり、お床をのべたりして退さがるまで、じっと何か考えるふうにして一言もおっしゃいませんでした」
その話から想像すると、滝良精氏は、二人の訪問にかなりショックを受けたらしいことがわかる。。一体、その二人は何者であろう。もちろん、滝氏が山城静一という偽名で泊まっていることを知らない男である。だが、滝氏が浅間温泉に来ていることは知っている連中なのだ。その点は、添田と全くよく似たような条件だった。
「それから直ぐなんです。帳場の方に電話がかかりまして、明日の朝早く宿を発ちたいとおっしゃいました」
「それまでは、そのお客さんは発つ予定はなかったのですか?」
「はいべつに聞いておりません。わたくしどもは、もう二、三日は御滞在になるのかと思っていました。なにしろ、初め見えた時には、しばらくここでのんびりしたい、ということでしたから。それで、今朝早く、お食事を差上げた時も、何か思案していらっしゃるような顔で黙りこくって、朝御飯を半分ばかりお食べになりました」
「そういう不機嫌な様子は、泊まって以来ずっとですか?」
「いいえ、ここに見えた時は、それほどでもございませんでした。尤も、よく本などを独りで読んでいらっしゃいましたが、時には、わたくしが伺うと、この土地のことや旅館の様子など、わりあい機嫌よくお話しになったのでございます。ですから、お発ちになる時、急に御機嫌が変わったのが不思議でした」
「最後に訊きますが、そのお客さんは、此処を発つ時、時刻表などを持って来させて調べませんでしたか」
「いいえ、それはなかったのでございます。多分、時刻表などはお持ちになっていたのじゃないでsとうか」
「そうかも知れませんな。ところで、七時半出発というと、松本発が八時十三分ですが、その頃東京に帰る人は、その汽車を利用するでしょうね?」
「いいえ、それは鈍行ですから、東京までのお客さまはあまり御利用になりません。その次の九時三十分が松本発の急行ですから、大てい、それでお帰りになります」
添田は、その旅館の者に礼を述べて、外に出た。
そこから見ると、穂高が真正面だった。蒼い秋空に頂上が白くくり抜いたように出ていた。
2022/09/27
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