~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (10-05)
添田は、松本駅に戻った。
滝良精氏がこの駅に現われたのは、八時頃である。添田は、改札の係員に滝氏の人相を言って、どの汽車に乗ったか、切符の行先はどこか、を訊ねようかと思った。しかし、この駅は案外に忙しい。訊いても無駄だ、とさとった。
駅の列車発着表を見上げると、上りのほかに、下りの十時十五分発の長野行きがある。今まで、滝氏は東京方面に向うものとばかり思っていたが、下りも考えられるのであった。宿を七時半に出たとなると、この十時の汽車にはちょっと早過ぎるから、滝氏が早朝に宿を出発したのは、或いは昨夜訪ねて来た二人連れの男の再度の来訪を避ける意味もあったのかも知れない。
長野行のその汽車は、どうせ北陸方面へ連絡するだろうし、滝氏が更に乗換え掌別な方面へ向ったという想像も充分に想定されるのである。
そうなると、滝氏は、自分の行先をいろいろと思案したに違いない。それは案内書などでひとりで考える場合もあるが、人に相談することもあるだろう。
添田の眼は、駅のすぐ隣にある旅行案内書に向いた。旅行案内書には二人の係員が居た。山のポスターを貼った壁を後ろにして、係員は添田と対い合った。
「今朝の八時か八時半ごろだと思いますが、五十五、六歳ぐらいの、こういう人が、こちらに旅行の相談に来ませんでしたでしょうか?」
添田は、手帳にはさんだ滝氏に写真を出して見せた。
係員は、おれを手に取って見ていたが、
「ああ、お見えになりました。この方でした」
とはっきち答えてくれた。
添田の考えは当たったのだ。
「その人は、行先を相談したんしょうか?」
「添田は、心をはずませて訊いた。
「ええ、何かひなびた温泉はないか、という御相談を受けました」
係員は答えたが、それを聞いて添田は、いかにもありそうなことだと思った。
「やはりそれは信州ですか?」
「そうです。いろいろと地図をお見せして、その候補地をお教えしたのですが、かなり迷っておられましたよ」
「結局、決まりましたか?」
「決まりました。それは奥蓼科おくたてしながいいだろうということになりました」
「奥蓼科?」
添田は、秋の高原の山の湯を眼にうかべた。
「で、そこの旅館を決めて行きましたか?」
「いいえ、それは何もおっしゃいませんでした。なにしろ、あそこは旅館が四軒ぐらいしかないんで、そう迷うことはないのです」
添田は、案内書から離れた。
滝氏はやはり八時十三分の上りに乗ったのだ。すると、これは茅野ちのに十時十五分ごろ着く。多分今ごろは、滝氏はその鄙びた旅館のどれかに身体を休ませているに違いなかった。
添田は、出札口に行って、躊躇ちゅうちょなく蓼科行の切符を求めた。
添田は、すぐ出る一時四十分の汽車に乗った。
短い秋の陽は、松本盆地のリンゴ畑の上に淡い朱色を投げていた。
昨夜、滝氏を訪ねて来た体格のいい男二人というのは、一体、何者であろうか。──
添田の考えは汽車に乗ってからも、それに落ち着く。
言い争いをしていたというのだが、それは何だろう。
宿の女中の話では、二人が来た時は、滝氏の宿屋での仮名を知らなかった。添田と同じように人相だけを言って尋ねたという。すると、その二人連れは、添田自身の立場とひどくよく似ているのだ。恐らくい、方々の旅館を、滝氏の人相だけを便りに訊ね歩いたに違いな。
滝氏は対手の二人の男を知らなかった。初対面らしいとは女中の話である。これから考えると、二人の男は滝氏を探して押しかけて来たと言える。激論になったのはどういう理由かわからないが、滝氏にとってあまり歓迎出来ない客だったのではなかろうか。女中が取次いだ時も、嫌な顔をしたという。
ここまで考えると、滝氏が急に東京を逃げ出して浅間温泉辺りに隠れていたことと、両人の訪問とは因縁がありそうである。そのことは二人の男が押しかけて来た晩、滝氏がその宿を引払う決心をつけたと想像出来ることで分かる。そして、さらに滝氏は東京には帰らずに、浅間温泉よりももっと鄙びた奥蓼科に隠れる気になったのであろう。
滝氏は何か危険を感じている。東京を逃げ出したのも、その怖れからだと想像される。
その怖れとは、滝氏が笹島画伯に野上久美子のをモデルとして紹介したことに原因がありそうだった。つまり、笹島画伯の自殺も滝良精死の急な逃避も、久子のことから原因が起こっているような気がする。もちろん、それは、久美子自身のことではなく、久美子の父が野上顕一郎だったということにありそうである。
(滝良精氏は確かに脅迫されている!)
添田は眼をあげた。
汽車はいつの間にかかみ諏訪すわ駅に着いていた。ここでも、温泉帰りの客がかなり乗り込んだ。茅野まであと十分ほどである。
汽車は駅を出ると、急な勾配に向って登りはじめた。
2022/09/28
Next