~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-01)
添田は茅野駅に降りた。
駅前にバスが四、五台停まっていたが、みんな上諏訪行だった。蓼科行を訊くと、近ごろは回数が少なくなっているという返事だった。夏場だと頻繁に通うが、秋の終りになればずっと減ってくるのである。
次の蓼科行が出るのには、一時間も待たねばならなかった。添田は、バスを諦めてハイヤーを頼んだ。
車は茅野の町を通って山の方へ向った。この町は古い家が多い。寒天製造の看板が方々で見られた。寒天は、ここの名産である。この辺一帯は、冬季になると寒気が厳しい。
道は絶えず登り勾配がつづいていた。途中で幾つもの部落を通り過ぎたが、道路はこの田舎に珍しく立派だった。季節になると、秘書のために都会地から人が集まるのである。
列車の窓から見馴れている八ヶ岳やつがたけが、ここでは側面になって山容を変えていた。一時間余り乗りつづけると、道は標高二千メートルを越えた。この辺に来ると、白樺しらかばやカラマツなどの林が葉を払い落して、梢だけになっていた。山の色は枯れている。
右手に湖が光った。このあたりからゆるやかな広い斜面となり、山稜には赤や青の屋根が森の中に見え出した。盆地は遥か下の方に小さくなっている。
添田は、滝良精氏がどの宿に泊まっているか予想がつかなかった。この辺から奥になると、渋ノ湯や明治湯などがあるが、交通は不便である。まず、一番誰でも行きそうな滝ン湯を考えて、運転手にもそう命じた。そこで滝氏が泊っていなかったら、今晩一晩滞在しても、他の温泉を探しに行くつもりだった。折角、此処までわざわざやって来たのである。
滝ノ湯には、旅館が一軒しかなかった。個人の別荘や会社の寮は、っこの宿からまだ上の方になっている。
宿の前で車を降りると、すぐ下に滝が湯気を上げていた。
宿は三階建てで、わりと大きい。添田は、すぐに懐から滝良精氏の写真を出した。どうせ本名では泊っていないと思ったから、この方が手っ取り早いのである。
「この方なら、お泊りになっていらっしゃいます」
女中は写真を見て答えたが、添田を警察の者ではないかと思ったらしく、不安な顔をした。
「ぼくは新聞社の者です。この方にぜひお会いしたいから、取り次いでもらえないでしょうか」
添田が名刺を出しかけると、女中はすぐに言った。
「お客様は、今、お部屋にはいらっしゃいません。先ほど散歩にお出かけになりました」
添田は、外に眼をやった。
晩秋の蓼科高原は、蒼い曽田の下にもう初冬の色を見せている。人の影もあまり動いていなかった。
「どの辺に出かけられたのですか?」
「多分、別荘のある上の方ではないかと思います。此処からずっと道がついていますから」
女中は指を上げて教えた。
「では、ぼくも散歩がてらに行って来ます。途中で遇ったら、そのお客さまと一緒に此処に帰って来ますからね」
添田は湯気を上げている川に架かった橋を渡ると、道はこれまで来た方角と途中でわかれている。そこは急な坂になっていた。
草は黄ばみ、白いすすきの穂が一面に風に光っていた。このあたりから、赤土の多い石ころ道になっている。
広い場所に出た。
其処は、四、五軒の飲食店や競技場のようなものがかたまっていたが、ほとんで戸を閉めていた。夏場だけの稼ぎである。入口のアーチ型の門には「蓼科銀座」とあった。
人は少なかった。まだ居残っているらしい別荘の住人や、背中にリュックを背負ったハイカー数人に遇ったにすぎない。
添田は、坂道を歩きながら滝良精氏の姿を求めたが、広い展望の中にはそれらしい影は無かった。
かなり登った所に茶店があった。道は此処から二股に岐れている。
添田は、茶店に寄った。この近所の茶店は、菓子などのほかには草鞋わらじや杖を売っていた。客はほかに一人も居なかった。
「この道を真直ぐ行くと、何処に出ますか?」
添田は右側の道を指さした。
「それをずっとおいでになると、蓼科山を越えて高野町に出ます」
茶店のおばさんは説明した。
「高野町?」
「へえ、其処から小諸こもろに行く汽車が通っています」
「其処に出るのは、大分、道程みちのりがありますか?」
「そりゃ大変ですよ。朝から出ないと向うには出られないでしょう。それに、山越えですからね」
滝氏がその道を行ってないことが判った。添田は、別の路を選んだ。
2022/09/29
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