~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-02)
道は別荘地帯に入って行く。どの家もほとんど戸を閉めていた。カラマツの奥の方に屋根があるかと思うと、斜面のずっと下の繁みの中に門が見えたりした。白樺の木肌が秋の弱い陽を受けていた。
添田が歩いている路の前を、リスが大急ぎで横切った。人は居なかった。森閑としたものである。
滝氏はどの路を行ったのであろう。添田は絶えず眼を配った。路は、またさまざまな小道に岐れている。谷間の向うには、霧ヶ峰きりがみねの山稜がゆるい曲線で下に落ちていた。茅野町らしい辺りが遠くに陥没していた。
空気は肌寒いくらいだった。道の両側には落葉が堆積たいせきしている。添田が踏む靴の下で木の葉が鳴った。添田は、肺の奥までガラスのような空気を吸った。
音一つ無く、人の声も絶えていた。どの別荘も戸を閉めている。個人の家だけではなく、会社や銀行の寮が入口に釘を打っているのだ。蓼科湖が下の方で小さな白い輪になっていた。冬近い蓼科の山は、茶褐色と黄色とを基調としている。
小さな峠を越えると、下の道から男が上って来た。土地の人らしく、モンペを穿き、背負籠しょいごを負っていた。
「お天気でごわす」
男は、添田が別荘の者かと思って、挨拶して通り過ぎようとした。添田は脚をとめた。
滝氏の特徴を伝えて、そういう人を見かけなかったか、と訊くと、
「へえ、そんな人なら、ずっと向うを歩いてやしたで」
添田は礼を述べて、その男と別れた。
やはり滝良精氏はこの路を歩いているのだ。添田は、少し急ぎ足になった。
また一つの小さな坂を越えた。
其処からは再びあの茶店の近くに降りて行くのだが、この時、途中の岐れた小径の上から、滝良精氏の姿がひょっこりと現われた。近づくまで、先方では気が付かなかったが、添田の顔を見ると、滝良精氏はぎょっとしたように立ち止って、こちらを凝視した。
添田は、お辞儀をして、滝氏の傍へ近づいた。
滝良精氏は、信じられないと言ったような表情をしていた。まさか、こんな所で添田に遇うとは思ってもみなかったことだろう。彼は呆然とした顔つきで、添田が近づいて来るのを見ていた。
「滝さん、今日は」
添田は傍に行ってお辞儀をした。
「・・・・」
滝氏は、すぐに声が出なかった。よほど愕いたとみえ。眼を丸くしていた。
「ずいぶんお探ししました」
添田は言った。
これが滝氏に初めて口を開かせた。
「君は、こんな所までぼくを追っかけて来たのか」
最初、添田と遇ったのは、半分は偶然かと疑っていたらしい滝氏も、添田のしの言葉で、今度は新しい驚嘆を見せた。
「実は、滝さんが浅間温泉に滞在されているものと思って、向こうまで行って、すぐ、こちらにやって来ました」
滝氏は黙って歩き出した。顔色が少し蒼くなっているようだった。
添田は、滝氏の横に並んだ。小径を下り、赤土のやや広い路をゆっくりと足を運んだ。
「何の用事だね?」
滝氏は、ここで平凡な顔つきに返って訊いた。もう、東京で見た時の表情と変わらなかった。遠い所をわざわざやって来た添田の努力は最初から滝氏の心に無いようにみえた。
「世界文化交流連盟のほうは、おやめになったそうですね?」
添田は、今度こそ滝氏が逃げ場の無いのを知って、はじめから切り込んだ。東京だと、失礼、と言って席を立たれる怖れがあるが、此処だと絶対にそんな気遣いはない。滝氏が駈け出さない限り、彼は氏を横に引き据えておくことが出来るのである。
「うむ」
滝氏は、仕方なしにうなずいた。
「ずいぶん突然のように思いますが。理由は何でしょうか?」
「君」
滝氏は急に大きな声を出した。
「そんなことがニュースになるのかね? いや、ぼくなんかが連盟の仕事から手を引いたことが、君を此処まで追っかけて来させるほど値打があるのかね?」
滝氏は瞬時に反撃に移っていた。そういう言い方をする滝氏の顔には、いつぞや添田が見た、あの皮肉が露骨に表れていた。
「あります」
添田は、その意質問の場合を考えて、用意していた答えを言った。
「ふむ。それを聴こう」
「連盟の仕事には、滝さんが最初から情熱を入れて、あれまでに育てられました。その滝さんが、事前の話もなく、また他の理事の方にも相談されずに、突然、辞表を旅先からお出しになったことがニュースです。第一、ぼくを此処までやらせてくれたのですから、社の幹部もそう考えたのでしょう」
添田は休暇を取って来たのである。しかし、後でそれが露見したとしても、今の場合、この言い方よりほかになかった。
2022/10/01
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