~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-03)
滝氏はまた黙って歩いた。添田の靴先に当たった小石が坂を転がった。添田は、それを見ていた。二人とも顔を上げずに俯向うつむいて歩いているのだった。
「べつに深い理由はない」
滝氏はぼそりと言った。
「疲れたのだ。この辺りで少し休ませてもらいたいと思った。それだけだよ」
「しかし、滝さん」
添田は急いで言った。
「それだと連盟の役員の方に御相談があった筈です。滝さんの性格として、勝手にそんなことを独りでおやりになるとは思われません。われわれは、滝さんが連盟に辞表を叩きつけた、と取っているのです」
この言葉の反応はあった。滝氏の顔が少し動揺したからである。
「君、本当か? ほんとうにみんなそう考えているのかね?」
「一部ですが、実際にそう取っているむきもあります。もし、そうでないということでしたら、この際、滝さんが辞職された心境をお聴かせ願いたいものです」
歩いている横の林の中から、百舌鳥も ずが枯葉を屑のように落として飛び去った。
「疲れた、というよりしようがないね」
滝氏は強情だった。
「辞表の出し方をいろいろ言うが、嫌になればあとで了解を求める方法はある。前例もあるよ」
「では、滝さんは、急に疲れて辞表を出されたわけですね?」
「そうだ、と言っている」
「ほかに理由は?」
「何も無いね」
路は一たん林の中に入ったが、ふたたび明るくひらけたところに出た。見透しの位置が変わって、今度は八ヶ岳の側面が眼の前だった。山肌に杉の密生が焦げ茶色のまだらになっている。
「わかりました。では、内部的な紛争というものは無いわけですね?」
「それは絶対に無い、そんなことがある筈はない」
滝氏は力をこめた。
「では、そう書きます」
「頼む」
滝氏は言った。この人が初めてそう言ったのである。添田は、案外な気がした。彼は、滝氏から好まれていない人物だと自覚していたが、滝氏の表情も、言葉も、以外に弱いのを見逃さなかった。東京と違って、やはりこういう山の中を二人だけで歩いているという親近感から来たのであろうか。
「滝さん」
添田は言った。
「此処までぼくが滝さんを追っかけて来た理由は、それだけです。用事は済みました。しかし、もう一つ、それとは別のことをお訊ねしてもいいでしょうか?」
「どんなことだね?」
「滝さんは、笹島画伯をご存知でしたね?」
添田は横を歩いていながら、それとなく滝氏の顔をうかががった。心なしか、表情が緊張しているように映った。
「知っている。友達だ」
滝氏は抑えた声で言った。
「社の先輩が、そう言っていました。ところで、その笹島さんが亡くなられたのをご存知でしょうか? たしか、滝さんが旅行に出発された後のことだと思います」
道は曲がっていた。二人はやはり並んで、その坂に沿って降りた。
向うから、裸馬を連れた男が登って来た。
「知っている。浅間温泉の宿で新聞を読んだ」
滝氏は低い声で、一語づつ切るようにした。
裸馬のひづめの音が乾いた路のうしろに遠くなった。
「そうですか。随分びっくりなすったでしょう」
「当り前だ。友達のことだからな」
「笹島さんの急死は、過失ではなく、自殺だという説もあります。もしそうだとしたら、何故、笹島さんは自殺されたのでしょう。ぼくが此処に来るまでは、捜査当局にも見当がついていませんでした。滝さんは笹島さんと親友でしたから、何か心当たりはありませんか」
滝氏は、急にポケットを探ったが、これは煙草を取り出すためだった。ライターを鳴らしたが、火は容易につかなかった。強い風の無い日和ひよりなのである。
「知らないね」
咽喉のどの奥から烟を吐き出して、滝氏は答えた。
「笹島にも永いこと会っていない。ぼくがそれを知る訳はないだろう」
下から若い男女のハイカーが登って来た。はずんだ話し声が通り過ぎた。
空気は澄みきっていた。遠い山のひだが細部まで描き分けられていた。
2022/10/02
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