~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-04)
滝良精氏は前より硬い表情になっていた。添田の言った言葉で、明らかに衝撃を受けているのだった。
「笹島さんの場合は、実に妙なことがあるんです」
添田は言い出した。
「妙なこと。何だね?」
滝氏が初めて問いを返した。本気だった。
「笹島さんは」
添田は前方の雲の下に連なっている青い山稜に眼をやりながら言った。
「大作を予定されていました。そのために或る若い娘さんをモデルとして、三日間、アトリエに通うように頼んでいられたのです。ところが、その間、毎日通って来る家政婦の人を、笹島さんは来させないようにしていたんです。妙な話です。モデルを呼ぶのでしたら、余計に家政婦の手が必要だろうに、何故、それを来させないのだろうか?」
茶屋の前に出た。道は此処から旅館の方に向う。蓼科湖がずっと大きくなって湖畔の植物が見えた。
滝良精氏は苦い顔をして聴いていた。
「もう一つ、もっと不思議なことが。あります。笹島さんは、そのお嬢さんのデッサンを八枚描き取ったそうです。本人もひどく乗り気になって、それは熱心にスケッチしたそうですがね。ところが、笹島さんが亡くなってみると、そのデッサンが紛失しているんです。描きかけの一枚を残してあと全部、何処に行ったかわからないのです。もちろん、笹島さんが破って捨てたという場合も考えられますが、その破片も見当りません。今も申しましたように、画伯はモデルのお嬢さんが大そう気に入っていて、スケッチにも熱心だったのですから、その出来もきっと良かったに違いありません。ですから、画伯がそれを破り捨てたということはまず考えられないと思います。そうすると、誰かがそれを盗んで持って行ったということになります。不思議な話です。何故、そのモデルの顔を描いたデッサンが盗まれたのでしょうか? そのお嬢さんは良家の子女です」
添田は、野上久美子の名前をわざと言わなかった。が、滝氏から先に言い出した。
「そのモデルは、ぼくが世話をした」
滝氏は耐えかねたように自分から言った。
「そりゃア本当かね? いや、そのデッサンが無くなったということだ」
「本当です。・・・そうですか。滝さんがお世話なすった?」
「知ったうちの娘さんでね。笹島が電話で頼んで来たから、ぼくが思いついて勧めたのだ」
滝氏の顔色が白くなっていた。
葉の無いカラマツの林を過ぎた。高原の広い斜面に雲の影がゆっくりと移動していた。その下では色の変化があった。
添田は初めて知ったように言った。
「それは知りませんでした。そうですか。そういう関係があったのですか」
添田は、ここで一歩を進めた。
「そのお嬢さんというのは、やはり滝さんのお仕事の関係で?」
「いや、そうじゃない。ぼくの旧い友達の娘さんだ」
「じゃ、そのお友達の方というのは、笹島さんもご存知でしたか?」
「笹島とは関係がない・・・その人は死んだ」
「亡くなられた?」
添田は、意外という眼つきを見せた。
「そうでしたか」
この時、滝良精氏が鋭い声で言った。
「君、そういうことが何か笹島君の死に関係があるのかね?」
「いや、そうではありません。はっきりとはわかりませんが、ぼくにはどうも、そのお嬢さんのデッサンが盗まれたことが引っかかるんです。それで、つい、そんなことを伺ったんです」
「そういう詮索は、もうしない方がいいね」
滝氏は添田に少し腹を立てたように言った。
「あまり他人の内面に立ち入らぬ方がいいだろう。笹島君はぼくの友達だ。それが君たちの職業的な興味の対象になるのは、ぼくには我慢がならないような気がする。第一、他人の死に、そういう詮索は不必要だし、失礼だと思う」
はじめて滝氏の口から抗議めいた言葉が出た。
「そうでしょうか?」
添田は穏やかに応じた。
「新聞は絶えず真相を追及しています。もちろん、失礼があったはなりませんが、ことを曖昧にしておけないのがわれわれの仕事です。いや、先輩に対して、ぼくなんかが生意気なことを言うようですが、滝さんにはわかって頂けると思っていました」
「そりゃア、君」
滝氏は急いで言いかけたが、急に言葉を切った。
自分でも思わず興奮しかけたのを抑えたのだった。
「そりゃわかるがね」
と穏やかになった。
「人の生活の内面には、いろいろ事情がある。他人に知られたくないことは、誰にでもあるだろう。生きている人間には弁解の権利があるがね、死んでしまったら、それを失うのだ」
「どういう意味でしょうか?」
若い記者は追及した。
「添田君」
滝氏はそれまで添田を見なかったが、今度は彼の方へ顔を向けてくれた。
「世の中には、いろいろむずかいいことがある。人に言えないまま死ななければならないことだってある・・・ぼくにもそれが無いとは言わない。しかし、今は何も話せないのだ」
「すると、いつかは・・・」
「いつかは、か」
思いなしか、滝氏の声には太い息が混じった。
「そうだな、ぼくが死ぬ時になったら話せるかも分からない」
「滝さんが亡くなられるときに?」
添田は思わず滝氏の表情を見つめた。それには複雑な微笑が水のように滲んで出た。
「当分、ぼくは死にそうにもないから大丈夫だ。君、見給え」
滝氏は指を上げた。
「ぼくはこんな美しい所を今歩いているんだ。しみじみ、生きる有難さを思うね、添田君、ぼくは当分死なないつもりだ。折角だが、この話は見込みがないものと思って忘れてくれ給え」
これまでの滝良精氏ではなかった。秋の気配のように、滝氏のひそりとした愛情が若い後輩に伝わった。
2022/10/03
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