~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-05)
添田は滝氏と並んで、宿の玄関に入った。
もう、滝氏に訊くことは何も無かった。滝氏ももうこれ以上は話さない。添田は泊るつもりで預けたスーツケースを、帳場から受け取った。
「いろいろ御迷惑をかけました」
添田は立ったまま滝氏に挨拶した。
「このまま東京に帰るのかね?」
滝氏は、多少名残り惜しそうな顔をした。
「はあ、真直ぐに帰ります」
「あまりお役に立たなかったな」
滝精良氏は、思いなしか寂しそうな微笑を口許に見せた。
「どういたしまして、かえっていろいろと失礼なことを申し上げました。滝さんは、まだずっとこちらにいらっしゃいますか」
滝氏の返辞を聞くのに間があった。
「当分、そうするかも知れません」
「ずっとこの宿で?」
「さあ」
滝氏は、遠い所を見ていた。
「他の温泉地に、気が向いたら移るかも知れないね。今のところ予定が立っていない」
添田は、滝氏が移るとしたら、ずっと山奥の寂し場所だと考えた。
「何かご家族に御用事でもありましたら、ぼくは今日中に東京に帰りますから、おことづけをいたしましょうか」
添田は思わず言った。
「いや」
滝氏は、これには直ぐに顔を振った。
「その必要はない。有難う」
別れる時が来た。添田が玄関を出ると、滝氏は入口まで見送った。
「失礼します」
この宿からバスのある所までは、一応、登らあねばならなかった。
添田は、湯気を立てて落ちている滝の傍を通って、停留所の方への道を歩いた。かなり行って振り返ると、宿が小さくなり、その前に滝氏の影はまだ立っていた。
坂道は、白樺の間を過ぎる。
バスの停留所には、三人の客が待ったいた。一人は猟銃を担いだ中年の男で、あとはリュックサックを背負った若い男女だった。
しばらく待つと、バスが下からあげぎながら登って来た。
降りた客は五人だった。土地に人ばかりで、下の町での買物の包みを提げているのが多かった。バスが出るまで、運転手は崖縁がけっぷちにしゃがみ、蒼い煙草の烟を吐いていた。
バスが出る頃になって、別の男連れのハイカーが駈けつけて来た。彼らは手にアケビの実の成った小枝を持っていた。アケビはれて、割れ目から黒い種子たねが覗いていた。気づくと、前の男女のリュックサックの蓋の間に、竜胆りんどうの花が押し込まれてあった。
バスはゆっくりと下りはじめた。カラマツの大きな林の横に下り道がついている。蓼科湖の傍を過ぎた。
2022/10/04
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