~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (11-06)
添田は、滝良精氏が笹島画伯の死の原因に心当たりがあるような気がした。その話が出た時の滝氏の顔色は、たしかに愕きはあったが、どこか予期したような感じがあった。
滝氏は何かを知っている。
添田が滝氏に訊けなかったことが一つある。それは、滝氏が何故、浅間温泉から倉皇そうこうとしてこの蓼科の奥に移ったか、ということである。此処に来る前の晩の浅間温泉に、滝氏は二人の男の訪問を受けている。しかも、それが決して愉快な客ではなかったことは、宿の者の話でも想像が出来る。滝氏が此処に移ったことと、その訪問客とは、無縁ではなさそうでsる。
添田は、その二人が何者であるかを知りたかったし、その質問がのどまで出かかっていた。が、結局、それを呑み込んだ。いかにもそれを言うのが滝氏に残酷なような気がした。滝氏の今までになかった弱々しい表情を見て、添田はこれまで抱いていた滝氏への印象を変えねばならなかった。
少ないバスの客は、ばらばらに座席を取っている。一組の男女は寄り添うように話をし、一組の男連れは疲れた顔で眼を閉じていた。猟銃を持った男は、手帳を出してしきりに何か書き込んでいる。ただ、バスの窓の景色だけが下降をつづけていた。
景色は普通のものになった。切株の残った田圃と、枯れた桑畑に変わった。大きなけやきの下に道祖神がある。その前にそなえた蜜柑みかんも、もう色づいていた。
部落に入ると、古びた小さな小学校があった。小旗を飾って運動会をやっている。見物人が多い。白と赤の鉢巻をした子供が懸命に走っていた。
それが過ぎて間もなくである。前方から大型のハイヤーが登って来た。
道は狭い。こちらも相当大きいバスだから、すれ違いのために互いが徐行した。
添田は窓から見るともなく行き過ぎるハイヤーを眺めた。上から見下ろすのだから、ハイヤーの窓は半分ぐらいしか覗けない。それでも、そこに三人の男客が乗っているのが見えた。両側の二人は黒っぽい洋服を着ていて、真中の一人は茶色だった。この道を登るのだったら、蓼科に行く客と思えた。
やはり今ごろでも客はあるものだ、と思った。もう五時を過ぎている。
すれ違って、バスはまた速度を出した。
添田は、ふと、今の客に気持が引っかかった。思わず滝氏のことを考えたのである。
浅間温泉に訪ねて来た男は二人連れだったが、今のハイヤーの客は確かに三人である。
それを滝氏に結び付けるのは思い過ごしかも知れなかった。が、一度思いついたことは容易に気持から消えなかった。
添田は、軽い不安を感じた。あの三人の男たちが滝氏の所に訪ねて行くような気がしてならない。添田は振り返った。が、もう、ハイヤーは桑畑の間に白い埃を立てていた。
添田は、よほど、これから引き返そうかと思ったくらいである。しかし、もしそうでなかった時のことを考えた。何でもないのに滝氏と再び顔を合わせる時の気まずさを考えた。
バスは、茅野町の町外れに入りかけていた。
(ぼくが死ぬ時でないと話せない)
添田は滝氏の呟いた言葉を心に泛べた。
2022/10/04
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