~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (12-01)
翌日、添田彰一は出社するとすぐに、笹島泰三の死を警視庁がどう決定したかを担当の所に訊きに行った。
「あれかい?」
と担当の記者はあっさり言った。
「あの絵描きさんは過失死に決まったよ」
「過失死? では、薬の飲み過ぎかい?」
「添田は訊き直した。
「そうだ」
「しかし、そりゃおかしいな」
添田は異議を唱えた。
「睡眠薬の致死量は、少なくとも百錠以上でないと効き目がない。笹島画伯の枕頭にあった空の瓶は、家政婦の証言でも、三十錠しか残っていなかった筈だ。それだけ全部飲んだにしても、画伯が死ぬのは変じゃないか」
「そういう説はあった」
記者は逆らわずに説明した。
「たしかに、解剖の所見では、少なくとも百錠飲んだくらいの多量の睡眠剤の検出があった。今、君の言った通りのことも警視庁では考えたらしい。しかし、例えば、他から睡眠薬を飲まされたという根拠が無い限り、その線は弱いのだ」
添田はその記者と別れた。
隣の席に、後から出社した同僚が腰を下ろした。
「よう、昨日は一日どこに行った?」
同僚は添田に微笑わらいながら訊いた。
「疲れたのでね、ぶらりと信州の方へ行って来た」
添田は考え込んでいた眼を普通に戻して同僚に向けた。
「そうかい。あの辺の秋はいいだろう」
「うん、久しぶりにいい空気を吸った。富士見ふじみ当たりの線路の脇は、とりどりの秋草で一ぱいだったよ」
「そうか。やはり違うんだな」
同僚は、ここで急に思い出したというように、
「そうそう、昨日は、電話が何回かかかって来たよ」
「そうか。有難う、誰からだった?」
「僕は二回ほど聞いたんだがね、最初は、若い女性の声だった。その次は、ちょっと年輩の女の人の声だ。君が居ないかと訊くので、今日は休暇を取っていると言ったら、ひどくがっかりしていた」
「冗談を言わずに、先方の名前を早く言ってくれ」
「いや、本当だよ。添田が帰ったらすぐに電話してくれ、ということづけだった。その二人とも苗字みょうじは同じだ。野上さんと言っていた」
それを聞いて、添田は席から起ち上がった。
信州に滝氏を訪ねて行く時、その出発を久美子に伝えようと思ったが、思い返して、その時はやめた。久美子も、その母も、添田の休暇を知っていなかったのだ。添田は、自分の留守中に、野上家に何かが起こったことを予感した。
彼は同僚の居るそこの電話を使わず、わざと一階に降りて、玄関のすぐ横に付いている公衆電話を使用した。此処だと自由にものが訊けるのである。
彼はまず、役所に電話をした。
「野上さんは、昨日から三日間、休暇をお取になりました」
久美子の課の別な女事務員が教えた。
「三日間の休暇ですって? どこか旅行に行くと言っていましたか?」
「いいえ、何かお家に急な用事があるということでしたわ」
添田は電話を切った。胸騒ぎがした。
すぐに、野上家に電話をした。
「添田ですが」
電話口に出て来た声は久美子の母の孝子だった。
「ああ、添田さん」
孝子は受話器の中で声をはずませた。
「失礼しました。ぼく、昨日は、ちょっと用事があって、信州に行ってました。その留守にお電話があったそうですね」
「ええ、昨日、わたくしから一度、久美子から一度、社の方にお電話いたしました。お宅ではなくて、どこかへお出かけらしいとうかがいましたので、ご連絡できずに残念でしたわ。久美子の出発前に、ぜひ添田さんにお目にかかってお話ししたいことがありましたの」
「出発って? 久美子さんは、どこへいたしたのですか?」
「京都ですわ。昨日の午後、東京を発ちました」
「一体、どうしたというんです?」
「そのことで、わたくしからもあなたに御相談したかったんですけれど。とのかく、お帰りになったと知って、ほっとしましたわ」
「もしもし」
添田はき込んだ。
「何かあったのですか?」
「電話では、ちょっと申し上げかねますの。よろしかったら、社が退けてからでもお寄り下さいますか?」
「いや、すぐ、これから伺います」
添田は電話を切った。社が退けるまで待てなかった。久美子が突然京都に行ったのである。何かが起こったに違いなかった。それを一刻も早く聞きたかった。時が時だった。
不安が添田の胸を襲った。
2022/10/05
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