~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (12-02)
添田は、また三階の編集局へ上ると、ちょっと用事があるから、と断わって出た。エレベーターを降りたところで知った人間に遇ったが、向うが話しかけるのを振り切って玄関を飛び出した。タクシーを拾い、杉並の久美子の家に急がせた。
有楽町から目的地までの、約四十分の車の中は苦しかった。いろいろな想像が湧いてくる。久美子が突然京都へ行ったことの理由がわからない。知らないということに焦燥と危惧とが起こって来る。彼は、社を休んだことを後悔した。
野上家は弱い陽射しの中に花柏さわらの青い垣根を揃えていた。玄関までの地面に箒目ほうきめが残っていることも、ふだんと変わりはなかった。
添田がブザーを鳴らすと、玄関はすぐに内側から開けられた。のぞいた久美子の母と顔が合った。
「今日は」
「どうぞ」
孝子は待っていたように、添田をすぐ上にあげた。
「久美子さんは京都ですって?」
添田は挨拶を済ませてすぐ要点に入った。
「そうなんですの。急なことで・・・」
「どういうことですか?」
「それを、実は添田さんに御相談したかったんです」
「昨日のことをお話ししておけばよかったのですが、つい、黙って行ってしまって、すみませんでした」
「いいえ、それは結構ですの。ただ、御相談出来なかったのが残念でしたわ。仕方がないので、わたくしたちだけの判断で久美子を発たせることにしました」
「一体、どうしたんですか?」
「実は、久美子に、こんな手紙が参りましたの」
孝子は用意していたらしく、懐から封筒を出して、添田の前に置いた。
「どうぞ、お読みになって」
添田は、封筒の表を眺めた。久美子宛だった。裏は山本千代子とある。ペン書きで、わりと上手な字だった。封筒はありふれた白い二重封筒だった。
添田は、中を出した。薄い紙が二枚にたたまれてあったが、それはタイプライターで打たれていた。
突然、お手紙を差し上げます。
わたしは、笹島画伯の描かれたあなたのデッサンを何枚か持っております。或る事情で手に入れたもので、その理由は、事情があって申し上げられません。しかし、決して不正な手段で手に入れたものでないことだけは明言できます。
わたしは、ぜひ、あなたさまにお逢いして、そのデッサンをお返ししたいと思います。笹島画伯が亡くなられた現在、このデッサンは、当然、あなたさまのお手許に返すべきものだと信じます。こう書きますと、さぞかしいろいろな御不信をお持ちのことと思いますが、どうぞ、わたしを御信用下さいまして、京都においで下さるようお願いいたします。デッサンは郵送してもよいのですが、その機会に、わたしはあなたさまにお目にかかりたいのでございます。少々遠方で申し訳ありませんが、わたしはどうしても今夜のうちに京都に発たねばなりませんので、東京でそれをお渡しすることが不可能なのです。お車代を同封しておきましたから、お受取り下さい。
わたしは、決してあなたさまに危害を加えるような人物でないことを責任をもって申し上げます。あなたさまにお逢いしたい理由は、お目にかかって詳しく御説明いたしますが、これは、わたしのあなたさまへの好意から出た申し入れだとお含み下さい。
笹島画伯のデッサンを或る手段でわたしが所蔵していることも、あなたさまへの好意の故だということを申し添えておきます。
もし、御承知ならば、左記の通りに、指定の場所へ一人でお越し下さるようお願いします。なお、その時間を中心に、前後一時間お待ちしてもお姿がないときは、何かの都合でわたしの希望がかなわなかったことと承知して諦めます。
十一月一日(水)正午(午前十一時より午後一時までお待ちしています)
京都市左京区南禅寺なんぜんじ山門さんもん付近。
二伸。京都にいらっしゃるのは、他の方との御同行は少しも構いませぬが、南禅寺の指定の場所には、必ずあなたさまお一人だけでお越し下さるようお願いいたします。
また、この手紙に御不審を持たれて、例えば警察署などへ御相談なさるようなことは絶対におやめ下さるようお願いします。くれぐれも申し上げますが、わたしはあなたさまに好意を持っていこそすれ、絶対にそれ以外の他意は持っておりませぬ。
   野上久美子様                        山本千代子
2022/10/06
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