~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (12-03)
添田は、手紙から眼を上げた。顔は興奮でひとりでにあかく上気していた。
「ね、変な手紙でございましょう?」
孝子は、添田の表情を見守って言った。彼女の方が添田の愕きを落ち着かせているような微笑持っていた。
「この方は、わたくしたちの誰も存じあげない名前です。まるきり心当たりがございませんの。添田さんは、この手紙の差出人をどうお考えになりますか?」
添田は、質問する孝子の顔を見つめた。が、その表情からは、彼女のはっきりした意思が読めなかった。
添田はためらった。自分に秘かに持っている意見はあった。が、それを孝子に言うには躊躇を要した。彼は、或いは孝子が自分と同じ考えを持っているのではないかと、視線が自然と観察的になったが、自信のある結果は、得られなかった。
「さあ、ぼくにはよく見当がつきませんが」
と添田は妥当な答え方をした。
「お母さまは、どういう御意見でしょう?」
「笹島先生のデッサンをこの方がお持ちになっていることは、事実だと思いますわ」
彼女はわりと冷静に言った。その答えは、添田も同感だったのでうなずいた。
「わたくしは、この方が、この手紙にあるように、やはり、久美子のデッサンをお返しになりたい気持からだと思います。ただ、それには、久美子にじかにお渡しになりたいのでございましょう。そのため、この方は郵送という方法をお採りにならなかったのです。京都で、というのは、この手紙にある通り、東京を発って京都に向わなければならなかった事情があったからだと思います」
「だったら、お母さま、この人はどうして自分のことを手紙の受取人に紹介しないのでしょう?」
「そのご不審は尤もですわ。わたくしたちもみんなそう思います。けれど、それは何かの事情があってのことと思います」
「事情といいますと?」
添田は、孝子の顔を凝視した。その眼に、添田はわれながら或る残酷を感じていた。
「よくわかりませんが」
孝子は眼を伏せて答えた。
「笹島先生の亡くなった事情に、この方は何かの関係があったのではないでしょうか。それをどうとお問いになられても困りますけれど、とにかく、そのことが、この方に、このような方法を択ばせた理由だと思います」
「むろん、この山本千代子さんという名前を、こちらのどなたもご存じないことは、本人も知っている筈です。それに、この手紙は全部タイプライターで打ってあるじゃありませんか。外国だとか、事務上の手紙なら別ですが、こういう私信をタイプライターで打つのもおかしなことだと思います」
「わたくしも奇妙に思いますわ。でも、それはやはりこの方の特殊な事情という条件の中で考えたいと思います。わたくしは、久美子がこの方に逢ったなら、久美子にとって何かいいことがあるような気がしたんです」
添田はぎょっとして、また孝子の顔を見た。が、やはり彼女の表情には特別な変化は現れていなかった。
「久美子さんにとっていおいことといいますと、どういうことでしょう?」
添田は、何となくつばを呑み込んだ。
「わかりませんわ。ただ、ぼんやりと、そう思っただけです。人間って、そんなはかないところに希望をかけるものですわ」
添田は、孝子の顔を見た。その彼女の眼も添田を見返していた。それは瞬間の強烈な視線のからみあいだった。
添田は息を詰めた。しかし、その視線を先に外したのは、孝子の方だった。
「それで、お母さまは」
と添田は声を落して訊いた。
「久美子さんを京都に一人でおやりになったのですか?」
孝子は複雑な表情をした。
「やはり、これは警視庁の方に相談した方がいいと思って、この手紙のことを或る警察官に話しました。警察官はこれを読んで、では、自分も一緒に行く、と言われたんです」
2022/10/07
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