~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (12-04)
「え、警察官が? では、一緒ですか?」
「はい」
孝子は俯向いた。
「警察のほうには、実は届けたくなかったのですが、姪の節子が主人に、このことを言ったらしいんです。すると姪の主人んが、ご承知のように或る大学の助教授をしておりますが、大そう心配して、やはり警察に言った方が久美子のために無難だ、という説を主張しまして、到頭、そうなったのでおざいます」
「そりゃまずかった」
添田は思わず叫んだ。
「警察官を久美子さんに付けたのはまずかった」
「わたくしもそうしたくなかったのですが、姪の主人がどうしても聞かないんです。もし、久美子に万一のことがあったりどうする、と言うのです」
「しかし、お母さま。この手紙のぬしは、久美子さんには何の危険もないと思いますがね。つまり、一人で京都におやりになっても大丈夫だと思うのです」
「わたくしもそう思います。でも、今申し上げましたような事情で、姪の主人の忠告通り、警察に言ったものですから、警察官が付くことになりました」
「その警察官は何という名前ですか?」
「鈴木警部補と言います。この方は、笹島先生の死因にまだ疑いを持っていらっしゃるようです」
「笹島画伯の死は、過失死と決定したのではなかったのですか?」
「一応、そういうことになったようですが、鈴木さんだけは、ひとりで頑固に別な考えを持っていらっしゃるのです。それで、久美子が笹島先生の事件で鈴木さんを存じあげていた関係から、手紙もこの方にお見せしたのです。すると鈴木さんは、自分の方から久美子に付いて行ってあげようと言い出されたのです。お断りのしようがなかったのですわ」
孝子は顔をうつむけた。
「それに、鈴木さんもわたくしたちの気持を、よく汲んで下さって、ただ、京都までついて行くだけで、現場には決して久美子と一緒に行かないという約束をなさいました。この手紙にも現場に付いて来ないのだったら、構わないとありましたので、つい、それをお受けしたのです」
孝子が信じるように、果たして鈴木警部補は久美子と南禅寺に一緒に行かないだろうか。いや、それは考えられない。彼は必ず久美子が出会う対手を確かめに行くであろう。そのつもりで京都までの同行を承知したのだ。
もとより、鈴木警部補は誰の眼にもわかるように久美子と一緒に現場に行くようなことはあるまい。しかし、対手がその尾行を感付かないでいるだろうか。
添田は、昨日東京に居なかったことに、改めて後悔が湧いた。久美子がその対手に逢っている日が、今日なのである。添田は時計を見た。一時だった。そうだ、この時間がこの手紙の指定する会見の最終時間なのだ。
2022/10/07
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