~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (13-01)
久美子が泊った宿は、祇園ぎおんの裏通りだった。其処は同じような旅館がいくつも並んでいる。すぐ横が、高台寺こうだいじという寺になっていた。
京の家の特徴として、入口は狭いが、奥は長かった。柱が紅殻で塗られているのも、この土地のものである。
朝、鐘の音に起された。泊っている部屋が裏なので、寺の本堂と真対まむかいだった。寺の屋根の上に、山のが少し見えていた。朝の八時過ぎまで、これに霜がっかったいた。
手紙には、正午と指定してあったが、午前十一時から午後一時まで待っている、と但書きが付いていた。
久美子は、十一時かっきりに行くつもりだった。
「南禅寺は、車でお行きはったら、十分くらいどす」
係の女中が教えた。
── しかし妙な手紙だった。笹島画伯の描いた久美子のデッサンを持っているというのだ。死んだ画伯からそれをどのようにして入手したかは、手紙の主は明らかにしていない。しかし、不正ではないと、この文章は断わっている。
直接に久美子に渡す、というのだ。この手紙をくれた山本千代子という名前に、無論、心当たりはなかった。
久美子は、この女性と笹島画伯とが特別な間柄で、デッサンもその理由で彼女が持っていると初めは思っていた。画伯が死んだので、大作のために描いたデッサンが不要になり、それを当人に返してくれるのふぁと考えていた。
だが、そう単純に考えるには合点のいかぬことが多い。この手紙の主は東京の人らしく、京都は旅行だ、と書いてある。しかし、なにも旅行先まで久美子を呼びつけることはない筈だった。それと、何よりもおかしいのは、笹島画伯は睡眠剤の多量服用によって急に死亡したのだから、画伯がそのひとにデッサンを手渡す時間はなかった筈だ。
展覧会に出すための作品が出来上がらないうちだから、生前の画伯がそのデッサンを他人ひとに渡すいわれもない。その素描は画伯自身が気に入っていたのである。いや、それだけでなく、画伯はもっとそれをつづけて描きたかったのだ。もし、必要でなかったら、久美子がアトリエに通うのを断わるわけだった。
もっと奇妙なのは、デッサンがどのような理由で入手されたかは別として、もし、それを久美子に返す好意があるのだったら、郵送でもすればいいわけなのだ。手紙では、久美子への好意を強調しているのだが、やり方はいかにも不自然だった。
それと、不思議なのは、このひとがその手紙を自分で書かずに、タイプライターで打たせていることだった。役所や会社が事務用として出した手紙ではない。個人から個人への通信である。それをわざわざタイプにしたのも、普通とは思えなかった。このひとは、私信にいつもタイプを使う女なのだろうか。
だが、さまざまな不審にも拘わらず、久美子がすすんで京都にやって来たのは、自分の描かれたデッサンを取り返したいこともあったが、何故、それが画伯の死の直前に失われたかと「いうことである。
画伯が他人に渡す筈がないとすると、画伯が死んでから、そのデッサンはそのひとが手に入れたということになる。それも、普通の手段ではなさそうである。
何故なら、画伯はあの家に独りだったのだ。
こう考えると、失われた八枚の素描は、そのひとが勝手に持ち去ったというこよができる。ここで、手紙の主山本千代子と、画伯とが特別な関係ではなかったかと考えるのだ。
久美子がモデルになって通っている間は、いつも雇っている家政婦さえも画伯は断わっていた。久美子の居ない間、山本千代子という女のひとが単独に画伯の宅に行っても、これは人にはわからないわけだ。
知りたいのは、そのひとが、何故、自分のデッサンを画伯から奪ったかということである。
久美子は、笹島画伯が急死したのを、まだ納得出来ないのだ。なるほど、その死体は解剖に付され、睡眠剤の多量服用が死因ということに誤りはなかった。
だが、そのような証明があったすらも、彼女は、画伯の死が自然でないような気がする。これは理屈ではなく、感じとしてである。
久美子が京都に来ることに母は反対しなかった。従姉の芦村節子も母の意見に賛成した。
しかし、この京都には自分だけで来たのではなかった。手紙には、京都までは誰が一緒に来てもいいが、南禅寺の山門付近には独りで来てほしい、と指定してあった。これも常識から考えると、合点のいかない一方的な指示である。
先方では、久美子と二人だけで逢いたい、というのだ。このことに不安を起こしたのは、節子の夫芦村亮一だった。警視庁の鈴木警部補に話した方がいい、と彼は主張した。夫の意見に節子が先ず従い、母が納得した。不本意だったが、鈴木警部補が京都の宿に一緒に来たのも、そんな経緯からだった。
2022/10/10
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