~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (13-02)
鈴木警部補は、今もこの同じ宿に居る。
警部補は久美子に気兼ねをしていて、なるべく彼女とは逢わないようにしている。が、同じ宿で警視庁の警官に監視されているかと思うと久美子は愉快でなかった。警部補の役は、自分を危険から守ってくれることだろうが、こちらにしてみれば、自由を束縛されているのである。鈴木警部補は笹島画伯の死亡の時に立ち会った人で、久美子はこの警部補から事情を訊かれている。その時の警部補の印象は、久美子に悪くはなかった。仕事に熱心な人だ、と感心したくらいである。笹島画伯が過失死と判っても、実に丹念に事情を調査していた。
だが、近親の勧めや、警部補自身の好意があっても、この「護衛」は有難迷惑だった。
勿論、警部補も、手紙の内容を全部知っている。それを手帳に写し取ったくらいだった。
現に、今朝けさから二度ほど女中を寄越して、久美子が何時に宿を出るかを訊いている。
「ぼくは決してお嬢さんの迷惑になるようなことはしませんよ。この手紙の通りに、此処で南禅寺からお帰りになるのを待っています。決して現場までは行きませんから安心して下さい」
久美子としては、手紙の通りに行動したかった。だから警部補には宿に残ってもらうよう熱心に頼んだのだった。警部補もそれは快く承 知してくれたのだ。
十時半になって、久美子はタクシーを宿に呼んでもらうことにした。鈴木警部補にもそのことは言ってある。手紙には正午だというのだが、先方は十一時から一時までの二時間も彼女を待ってくれているわけだ。
それに、少しでも早く、その山本千代子というひと に逢い、事情を訊いてみたかった。わざわざ此処まで呼びつけたのだ。先方が冷淡な筈はない。手紙にも断わっている通り、彼女に好意を持っているというのなら尚更だった。
そのひとに逢っての話に、久美子は期待をかけていた。
「お車が参りました」
女中が知らせた。
奥から長い廊下を歩いていると、鈴木警部補が後ろから声をかけた。
「今からですか?」
鈴木警部補の部屋は階下しただった。その前を通り過ぎた時である。警部補はまだ宿の丹前を着ていた。
「行って参ります」
久美子は軽く頭を下げた。自分から頼んだのではないが、やはりこの警部補の苦労を感謝した。それと、久美子を安心させたのは、彼がまだ宿の丹前を着ていることだった。
「行ってらっしゃい」
警部補は落ち着いて微笑した。
久美子は、女中の見送りで車に乗った。
車は丸山まるやま公園の横を通って、粟田口あわたぐちから蹴上けあげの方に出た。途中は静かで、大きな寺院ばかりがつづく。
蹴上から広い道が下り坂となり、疎水そすいがそれに沿っていた。人も車も少ない通りなのだ。東山のすぐ麓になっている。
小さな橋を渡ると、其処からが南禅寺の境内になっていた。なるほど宿から十分くらいだった。
急に木が多くなった。林の間につけてような道を少し上がると、車は停まった。
「此処が山門です」
久美子は、そこで車を帰した。
道の突き当りが方丈になっているらしく、白い壁が両側から突き出た樹の茂みの間に見えた。左の松林の中に古びた山門がある。右は白い壁が正面まで長々とつづき、この南禅寺の別院になっているらしかった。
指定の場所は、山門付近だというのだ。見渡したところ、誰も居なかった。ただ一人、青年が大きな犬を遊ばせている。
時計を見ると、まさに十一時だった。久美子は、そのこみちから山門の方へ歩いた。松林になっていて、殆どが赤松である。下には短い植物が群がっていた。
ひる近い陽射しだったが、光りは弱かった。秋なのである。光線は松林の間から洩れて、草と、白い地上に明暗のをつくっていた。
山門は、こちらから見ると、屋根も軒も蔽いかぶさるように大きい。陽の加減でそれが逆光になり、暗い部分に複雑な斗栱ますぐみが高く載っていた。建物は古びて黒ずんでいる。そのせいか、近づくと汚らしく見える。木肌も荒く割れているのだ。歌舞伎に出て来る石川いしかわ 右衛門う えもんの舞台の朱塗から想像して、一致しているのはその建造物の大きさだけだった。
2022/10/10
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