~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (13-03)
久美子は、山門の載っている石の基壇きだんに立っていた。人はやはり来ない。話し声が反対側の松林の向うでしていたが、それは坊さんだった。静かなものだった。この静けさの中で久美子は時間を待った。
石段を登ったり降りたりした。松林の中にも入ってみた。先方の指定が山門附近という8のだから、この場所から遠くに行かなければどちらにもわかる筈だった。
山門から奥へ向かって正面が法堂はつとうになっていた。久美子は退屈になって、その前に行った。やはり短い石段を登ってすぐお堂の入口になる。さし覗くと、暗い正面に金銅仏こんどうぶつが三体ほのかな光線を受けて光っている。両側に太い柱があって、禅宗の文句がついになってかかっていた。床の石だたみの上に、偉い坊さんが坐るらしい曲彔きょくろくがあった。傍に畳みもある。その上にも坊さんの椅子があった。外の明るい側から覗くせいか知らないが、薄気味の悪い荘厳さだった。
この時、ずっと後ろの方で賑やかな声がした。
久美子が振り向くと、十四、五人ばかりの男が山門の方へ近付いて行くところだった。女性は一人も居なかった。
久美子は、法堂を離れて北側へ廻った。其処にも車で来たと同じような道がある。やはり同じ白い塀がつづき、さまざまな屋根がさし覗いていた。三重塔まであった。
大勢の見物人は、山門を見上げたり、柱を手で叩いたりしていたが、やがて、一人が連中を並べてカメラで記念撮影をしていた。
こんなことを、脚をゆるめながらぼんやりと見ていると、松林の向うに女の姿が動いていた。久美子は、はっとした。時計を見ると十二時五分前だ。
久美子は凝視した。若い女だった。が、独りではない。男が後から急ぎ足で来て、その女に並んだ。
山本千代子は、年齢も判らなかった。若いのか、年を取っているのか、想像もつかない。ただ独りで彼女が来るものと思い込んでいた久美子は、なるほど、ほかにつれがあるこt5おも考えられると、思い直した。
久美子は、自分の姿を対手に容易に認めさせるため、山門の方へ近付いた。団体客の方は、撮影を終わって法堂の方へ行っている。
女は男と一緒に、高い山門を仰向いで見ていた。そこに久美子が立って居ることは眼に入っている筈なのに、一向に注意を向けない風だった。その男女は、方丈の方へ勝手に歩いて行く。
違っていた。
久美子は、軽く失望した。
赤い松の幹に当たっている光線が変わってきた。陽の加減もいくぶん強くなったようである。もう十二時を過ぎていた。
地面は、蒼い林の部分を覗くと、すべて白い砂が敷かれ、これが強くなった陽ざしに眩しいくらいである。その白い地面の上に、山門の影がおおきく落ちている。
先ほどの男たちが去り、二人の男女が居なくなると、またもとの状態になった。
久美子は、だんだん退屈してきた。しかし心の方は切なくはずんでくるといったような妙な具合で、車を降りた場所へ移った。其処から見た山門は松の枝に まつ わられて美しい。古い灯籠が一基、樹の影に沈んでいる。
道の片側の白い塀の中は、尼寺みたいに優しい造りだった。門を覗くと「正因庵」という額があった。塀に沿って狭い溝があり、水が微かな音を立てて速く流れていた。
このとき、下の方から自動車が登って来た。タクシーと違って立派な外車のハイヤーだった。それも一台ではなく、三台つづいている。
久美子が眼を っていると、横を通り抜ける時、車は、窓に外人ばかりの客を見せた。次の車も、その次も、三台とも外人だった。女の燃えるような赤い髪が窓にあった。
京都に来た外人観光客が、この南禅寺にも見物に廻って来たとみえる。三台の車は真直ぐに進んで、此処からは白い壁だけが見える方丈の前に停まった。
久美子は、またもとの道を振り返ったが、やはり誰も歩いて来る姿は無い。白い道が下り坂になって、両方にさし出た葉の繁りだけが蒼いのであっる。
明るい陽になかに時間だけが虚しく過ぎた。
時計を見ると、十二時四十分にもなっていた。正午という手紙の指定を過ぎている。尤も、あと二十分経たねば但書の午後一時にはならない。久美子が遅れることも余裕に入れて、前後一時間の幅を取ったものとみえる。
此処で人を待たなかったら、結構、これは愉しい見物だった。古い寺だし、由緒もある。赤松の林も、秋の 日和 ひより の下で落ち着いた景色をつくっている。静かなことはこの上もないのだ。
手紙は、不真面目なものとは思われない。必ず来るに違いなかった。が、対手の方が、或いは先に来ているかもしれないと思い込んでいた久美子は、いつまでも待たされていることにようやく不安が起こってきた。
ふと見ると、先ほどの外人観光客が、方丈のほうから山門の方へ大勢で歩いている。
男と女だったが、外国婦人の着ている原色の派手さが、この くす んだ単色の中に、急に明るくて強いアクセントを加えた。外人は十人ぐらい居た。通訳が付いていて、何か指を上げながら説明している。婦人の茶色や亜麻色の髪が、蒼い松林の中に、絵具の しずく を落としたようだった。
2022/10/11
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