~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (13-06)
鈴木警部補は、歩いて来る久美子に笑いかけた。
陽射しの加減で、その微笑は顔に翳を作った。微笑わらいい方もそうだったが、警部補の様子自体が、どこかバツが悪そうだった。
今まで頸部が隠れていた位置が、山門前の松林とは、道路を隔てた反対側の林の中だった。
久美子は、頸部の姿を見た瞬間から腹を立てていた。此処には約束通り彼女がひとりで来ることになったいる。警部補もそれを承知していて、宿では着物も着替えずに久美子を見送ったくらいだった。
警部補の苦笑は、彼自身がその弱味を自覚しているからなのだ。
「鈴木さんは・・・」
と久美子は鈴木警部に言った。
「前からここに来ていらしたんですね?」
久美子の非難の瞳正面から受けて、警部補は頭を掻いた。
「いや、どうも、実は、ぼくもあれから此処に来てみたくなりましたのでね。なるほど、いいところですね」
警部補のこの言葉を、彼女はおとなの老獪ろうかいと受け取った。
「久美子が心配になったからですか?」
「そのこともありますが」
警部補は受け身に立って、弱っていた。
「せっかく、京都に来たんですから、やはり何ですな、ここも、つい、見物したくなったのですよ」
「お約束が違いますわ」
久美子は正面からきめつけた。
「鈴木さんは宿に残って頂くはずでしたわ。そうお約束したんですもの。もう前からここにいらしたんでしょう?」
「いや、たった今です」
嘘、と久美子は心の中で叫んだ。
そんなはずはない。もしかすると、タクシーで久美子がここに来たすぐ後、彼も急いでそを追ったに違いない。
山本千代子を待って、三時間近くもこの境内をさ迷っている間、警部補は久美子の目の届かない所に身をひそめていたのだ。
「謝ります」
警部補は遂に降参した。
「お約束をたがえたのは、ぼくが悪かったです」
頭を下げられると、久美子も怒れなかった。従姉の夫に頼まれて自分のことを心配して来てくれたことだし、短いこれまでの付合いでも、この警部補が善人と判っていた。
だが、警部補の善意とは関係のない失望が、彼女の胸に大きく穴をあけていた。
手紙の主山本千代子は、この境内に待っているのが久美子ひとりでないと見抜いたのではなかろうか。手紙には、繰り返しひとりで来てくれと指定してあった。それに違反して別な人物、。しかも警察の人間が、彼女の後ろに控えているのを察知したのではなかろうか。
そのために、山本千代子は遂に久美子の前に自分の姿を出さなかったのであろう。久美子は、まだ見たことのない対手が、途中できびすを返して立去ったような気がする。対手は、自分の姿をそこに現わさなかったことで、久美子の違反を非難しているように思える。
2022/10/14
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