~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (13-07)
南禅寺のこの境内には、やはり秋の陽が空気を乱さないで、おだやかによどんでいた。
「先方は見えましたか?」
警部補は手紙の主のことを訊いた。その質問も久美子をおこらせた。何もかも承知の上で、とぼけて訊いているとしか思えなかった。
「お会い出来ませんでしたわ」
対手が年上だったし、やはり正面から怒りを投げつけるわけにはいかなかった。言葉もこれまでと違わなかった。他人への礼儀だけは守るようしつけられて育ったのだ。
「そりゃあ、どうしたんでしょうね」
警部補は小首をかしげている。
何もかも判っての仕種だった。
しかし、あなたの不注意のせいだとは矢張り言えなかった。どこか悄気しょげている警部補が気の毒なのである。
「まさか、あの手紙が、いい加減だったというわけでもないでしょう」
鈴木警部補は、まだ、弁解がましく呟いていた。対手の現れない理由を考えているようなふうだった。
久美子は境内から出口の方へ歩いた。自然と警部補も彼女の傍に並んだ。疎水にかかっているかかっている橋に出るまで、境内に入って来る二人の女性に出遭ったが、それぞれ夫らしい連れがあった。擦れ違っても久美子には眼もくれなかった。
橋にはピクニックに行くらしい小学生が、五、六人でバスを待っていた。耳に入る子供たちの京言葉が可愛い。
「どうします?」
鈴木警部補は久美子の顔を遠慮そうにうかがった。
すぐ横に小さな店があって、駄菓子や茹卵ゆでたまごを売っている。
「帰りますわ」
久美子は躊躇なく言った。それが、警部補のお節介へのせめてもの仕返しだった。
「このままですか?」
警部補の方が心残りげに、歩いて来た境内の方に眼を向けていた。せっかく、ここまで来たのにという未練がその表情にあった。そうだ、せっかく京都まで来たのだ。それが全く無駄に終わった。あの手紙から始まる展開に期待をかけて来たのに。──
久美子は、充実感が去り、脚にも疲労を覚えた。三時間近くも南禅寺を歩き廻っていたのだ。
通りがかりのタクシーに先に手を挙げたのも久美子の方だった。
来た時の道が逆に流れる。戻り道が味気なかった。
「お帰りやす」
宿に着くと女中が迎えた。
「何時の汽車に乗りますか?」
警部補は玄関を上がって自分の座敷にふき取る前に久美子に訊いた。
「今夜にしますわ。朝、東京に着くようにしたいんです」
久美子は、警部補の無神経さが少々たならなくなって来た。自分の気持とは係わりのない人物が、これから先、東京までの同行を勝手に決めているかと思うと、やりきれなかった。
「時刻表を調べて、適当な汽車をあとでお報せします」
警部補は親切に言った。
これには、お願いします、と答えただけで、久美子は二階の自分の部屋に上った。
外側の障子を開けると、寺の屋根に鳩が群れていた。近くに観光バスの溜り場があるらしく、拡声器で行先を客に放送していた。
久美子はスーツケースから便箋を取り出すと、万年筆で走り書きした。
いろいろお世話になりました。これからはわたくしひとりで京都見物をしてみたいと思います。どうぞ御心配なさらないようにお願いします。勝手なことをして申し訳ありません・いろいろありがとうございました。東京には明朝の汽車に乗ります。
   鈴木警部補様
女中を呼んで、後で封筒を警部補の座敷に届けるように頼んだ。
宿に、勘定も警部補には知らさないようにと言ってそっと払った。
「へえ、おひとりで帰りどすか?」
女中は、びっくりした眼で久美子の準備を見ていた。
2022/10/14
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