~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-01)
久美子は宿を出た。
鈴木警部補には気の毒だったが、自分の自由が初めて取り返されたように思えた。これからは完全に独りである。東京に帰るまで気ままに振舞えるのである。旅の歓びは自由なくして味わえない。
京都は不案内だったがそれなりに愉しかった。どこへでも勝手に行けるのである。
宿の前の道を真直ぐに歩いて行くと、いかにも京らしい格子構えの家が続いていた。
小さな垣根があったり、古い門があったりする。「あま酒」と書いた旗を立てている店もあった。それも普通の店つきだなく、表には骨董屋のように茶道具を飾り、横手の狭い門から垣根の中を入って行くのである。
人通りは少なかった。垣根の間から八坂の塔が見えていた。方向もわからないで歩いているのは、愉しいことだった。知らないで来たのだが、この道は祇園の裏手に当たっていた。丸山公園に出て、初めて観光客らしい群れに出会遇った。
しかし、そこを過ぎて知恩院ちおんいんの下から青蓮院しょうれんいんに向う通りは、再び静かな道となる。高い石垣の上に、寺の白い塀が長々と伸びている。塀の上からのぞいている松の枝振りも、手入れが届いていて落着きのあるものだし、その上に白い雲がゆったりと動いていた。
すれ違う通行人の言葉も、柔かい京言葉だった。久美子は気持が愉しかった。
南禅寺に手紙の対手を待って、三時間も無駄だったことも、気持の上に回復されていた。鈴木警部補という糸を自分で切って脱け出たことも、軽い冒険だったし、小さな自由を獲得できた喜びがあった。
久美子は、もう一晩京都に泊まるつもりだったが、昨夜、泊まった辺りに宿をとる気持ちはなかった。警部補が、血眼ちまなこになって自分を探しているような気持がしてならなかった。彼には悪いが、今夜だけは独り旅を味わいたかった。
ゆるやかな勾配の路を下ると、正面に大きな赤い鳥居が見えた。後ろの山の形に記憶があるので、その麓が午前中に行った南禅寺の辺りだと判った。
電車が前を横切って走って行った。
この電車通りに沿った家も、狭い人口と、低い屋根と、紅殻べにがらの格子戸だった。久美子は電車の標識に「大津おおつ行」の文字を見た。通りに沿って坂を上がったが、何処へ行くのかわからない。が、知らない路を未知の方角へ歩くのに仕合せを感じていた。ここは京都なのである。
彼女はゆっくりと歩いた。通る人も東京のように忙しそうな姿はない、自動車の数もずっと少ないのである。すべてが静かで悠長に見えた。
久美子は、通りの片側が高台になっている上に、大きな建物を見た。Mホテルだった。
久美子が急に決心をつけてホテルの玄関へ歩いたのは、一つはどこかに鈴木警部補のことが頭にあったからだった。此処だと、昨夜の宿と違い、一流のホテルだし、贅沢な人間が泊まることになっている。警部補が彼女の行方を捜しても、此処だと盲点になると思った。
それに、普通の宿と違って、ホテルだと部屋に鍵がかかるから、ゆっくりと落ち着くことが出来る。持ってきた金はそれほど多くはなかったが、未知の世界へ歩き出した以上、今夜一晩だけでも自分を童話の世界に置きたかった。
玄関は、はじめて来る者に威圧的に見えた。高級車が何台か駐車し、恰度、久美子が入って来た時に、回転ドアーを押して出て来た人間が外国人だった。
玄関を入った正面はくすんだ金色の荘重さがあった。彼女はフロントの前に歩いた。
「御予約を承っておりますでしょうか?」
事務員が丁寧に訊いた。
「べつに申し込んでいません」
「少々、お待ちくださいませ」
事務員は、帳面を繰っていたが、
「恰度、いい具合に、今夜のお客さまはキャンセルなさったお部屋がございます、おひとりでいらっしゃいますか」
「そうです」
「あいにくと、今夜一晩しかいておりませんが、よろしゅうございますか?」
「結構ですわ」
「三階でございますが、恰度、表側ですから、眺望はよよろしいかと思います」
「ありがとう」
事務員は、カウンターの上に備え付けてあるペンを取り、久美子にさし向けた。
久美子はちょっと考えていたが、カードに自分の実際の住所と名前を書いた。
「恐れ入りました」
事務員はボーイを目配めくばせした。
エレベーターの中も殆ど外国人だった。
ボーイは緋絨毯ひじゅうたんを敷いた廊下を先に歩いて、あえる部屋のドアを鍵で開けた。
ベッドはダブルになっていたが、苦情は言えなかった。予約を取り消した人が居たのが幸いなのである。フロントで言っていたように、窓際からは、東山の長い起伏がゆっくりと見えた。すぐ下に、さきほど見かけた電車が走り、その向こうに、広い道がゆるい勾配になって下っている。東山の山裾やますその森から左手にかけて、京都の閑静な区域が一望に見渡せた。林の中に、寺らしい大きな屋根がいくつも点在している。
久美子は、両手を拡げて空気を吸い込んだ。
此処には久美子だけが居る。このホテルに泊まっていることは誰も知らないのだ。
これは素晴らしいことだった。警部補も勿論だが、母も、従姉も、彼女の身辺から絶ち切れている。自由な空気を存分に吸っている感じだった。
2022/10/16
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