~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-02)
彼女は、添田のことを思い出した。今ごろは、新聞社で忙しそうに鉛筆を走らせているだろうか。それとも、外に出て走り廻っているのであろうか。
公子は、よほど卓上の電話機を取って東京の新聞社に繋いでもらおうかと思った。此処からだと直通で、恰度、都内で話をしているようなものだった。だが、その誘惑にも彼女は克った。今日と明日だけは、完全に独りになり切ってみたい。話をするなら、すべて、この小さな旅が終わった後なのだ。
壁には、京都の名所の略図が掲げてあった。外人客のために、全部、英語で名前が書き入れてある。
久美子が午前中に行った南禅寺も書き入れてあった。銀閣寺も、金閣寺も、平安神宮あった。
久美子は、その略図を見ているうちに、この午後をどこかの寺の静かな境内で過ごしたくなった。
だが、京都市内から外れている区域が今の気持に合致した。郊外の方が余計にそそられるようだった。
地図の上で北には大原おおはら八瀬やせの地名がついている。久美子は、高等学校の教科書で馴染んだ「平家物語」の寂光院じゃっこういんに心が動いた。だが、南の方にも行ってみたかった。
東京に帰るのは明日の朝の汽車として、今日いっぱいは自由の時間がある。彼女は、地図の下の方についている“MOSS TEMPLE”の文字を見つけた。括弧かっこの中に“KOKE-DERA”と書いてある。
苔寺は、前から聞いている名前だった。久美子は、すぐそれに決めた。
「さようですね。車ですと、三十分ぐらいで行けるでしょう」
来てもらったボーイに訊くと、そう答えた。
「ですが、どうでしょう?」
とボーイは首を傾げた。
「このごろは、入園者を制限しているという話ですから」
「あら、そんななの?」
「はい、なにしろ、中学生などが団体で入って来て、苔をむしったり、チュウインガムなどを捨てて行ったりするものですから、寺では苔の保存のために、やたらと人を入れなくなったそうです」
「では、前もって申し込まなければいけないのかしら?」
「さようですね、修学院しゅうがくいんなどがそうですから、苔寺そうなっているのかもしれません。今、訊いてみます」
ボーイはフロントに電話をかけてみたが、
「大丈夫だそうです」
と答えた。
2022/10/16
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