~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-03)
車は京の街を抜けた途端、渡月橋とげつきょうにかかっていた。
途中でも、運転手は、金閣寺など寄ってみないか、と誘ったが、久美子は、ゆっくりと向うの寺で過しかったので断わった。それに、新しく出来た建築では興味が薄れた。嵐山の景色を見るために、橋の袂に大勢が集まっていたが、彼女はそこでも降りなかった。
そこを過ぎてから広い田圃を見渡す道を走る。途中で、舟を積んだトラックを追い越したが、保津川ほずがわくだりの舟を上流に運ぶのだ、と運転手は教えた。
広い道から岐れて山沿いに行くと、小さな料理屋や、土産物屋などが集まっている細い路に入った。ここでも団体客が多く、車も駐車場に入りきれない。運転手は、その辺に車を停めておくから、と言った。久美子は、人の群の後について寺の方へ向った。バスが寺内の見物から帰る客を待っていて、運転手とバスガールが退屈そうに話していた。
小さな低い川を渡ると、そこが西芳寺さいほうじの入口だった。ゆるやかな曲がった一本道の両側は、深い木立になっていた。
道も一つだったが、人が居るので迷うことはなかった。突き当たった所が寺の本堂で、ここでは拝観料を払う仕組みになっている。右側が庭の入口だった。
久美子は、ゆっくりと脚を運んだ。想っていたより見物人たちが居て、大ていれがあり、脚の遲い彼女を追い越して行く。木立の茂みが深いので、うす暗い庭だった。曲がりくねった小さなみち には、両端ともさくが打ってある。その外が蒼いビロードのような苔の密集地帯だった。見ていて、下からすくい上げたくなるくらい、柔かい厚味で木の根本に展がっていた。石も、円い和やかなものでなく、鋭い角を見せた組み合わせが多かった。この石庭にも、モヘヤのオーバー地のような苔が取り付いていた。
小径は庭園を屈折して巡回している。下りたかと思うと、上がりになり、また下るのである。変わらないのは、絶えず池の水が眼と耳から離れないことだった。木の茂みの加減で、夕暮のような暗い所を通ったり、明るい場所になったりした。雲の多い空から陽が射したり、隠れたりしているような具合だった。ここで動いているのは人だけである。
寺で苔を大事にする筈だった。頬ずりしたくなるように、美しく柔かいのである。色は陽の当たる所でえ、陰の部分は沈んだ深みを見せていた。所によって、愕くほどの厚さがあった。
庭のところどころに、小さな茶室がある。禅寺なので、それに掲げられた額も、瑠璃閣るりかく湘南亭しょうなんてい潭北亭たんほくてい西来堂さいらいどうという名前である。池は「黄金池」と札が立っていて、名前の由来は、『碧厳録へきがんろく』から取った、と説明されている。
ときおり、この小さな堂に、中年の男女が休んでいたりなどしていた。いかのも庭を愉しみに来たという感じだった。
一番低くなった所に、竹藪たけやぶが隣合っていた。そこでも小さな川があって、橋が架かったいた。見物人を行かせないらしく、縄で仕切ってあった。竹藪はこの辺の名物だが、見ているだけでも、苔の庭と似合うのである。
久美子は歩きながら、自分を包んでくれる仕合せを重く受け取った。
久美子は、竹藪に架かっている橋の所でしばらくたたずみ、下の小川を見ていた。水は湧き水のように澄んでいる。
見物人たちは、少し離れた径を斜面に向かって上っていた。その人の群れの中に、黄色い髪毛の外国婦人が日本人の男と歩いていた。着ているスーツは、西洋人にしては地味なほうで、その髪の色と共に久美子には記憶があった。山本千代子を待って南禅寺の境内に居る時、一団の観光客の中にたしかに混じっていた婦人だった。伴れの男は違っているが、その女性にどうも見覚えがある。南禅寺の中庭を眺めていたひとらしい。
久美子がそれとなく見ていると、向うでも彼女に気づいたのか、顔をこちらに向けた。黒い眼鏡を掛けているので、眼の表情はわからない。この眼鏡だけが南禅寺の時には無かったものだ。
尤も、南禅寺で出遭ったことは、彼女の方に記憶がないかも知れない。外国婦人の興味は、竹藪を背にして日本の若い娘にあったのかも知れなかった。蒼い色を主調としたこの背景の中に、その外国婦人の冴えたレモン色の髪は美しかった。
傍に付いている日本人は背が低い。指を庭の方に向けながら口を動かしているところからみると、通訳かも知れなかった。南禅寺で見た時の彼女の同伴者は、もっと背の高い人だった。あれこそ彼女の夫に違いないように思える。
見物人があとからつづいているので、それに押されるように外国婦人も久美子の前から過ぎた。背の高い彼女の姿は、坂になっている小径を上って行く。やがて、それは林の陰に見えなくなった。
2022/10/17
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