~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-05)
シャッタの音は、たっぷり七、八度ぐらいは聞こえた。その都度、久美子は自分の向きを変えさせられた。久美子の背景には、庭の泉と林とがあった。
やっと、婦人は自分のをファインダーから離した。
「ありがとう」
と、笑って礼を言った。
「きっと、美しい写真ができると思います。お嬢さんは、京都の方ですか?」
「違います。東京です」
「おう、東京。それでは、京都へ観光で来られたのですか?」
「用事のついでに見物しているわけです」
「いいことですわ。あなたのフランス語、とてもお上手です。やはり大学で教わったのですか?」
「大学で習ったのですが、上手に話せません」
「いいえ、立派なフランス語です」
婦人は賞めてくれた。
久美子が困っていると、それに気付いたらしく、
「お手間を取らせましたね。ありがとう。どうぞ」
婦人はもう一度久美子の手を握った。それもやさいく力が籠もっていた。
「すみませんでした」
と言ったのは、横の日本人だった。
「大へん悦んでいますよ。どうぞ、御自由に先へいらして下さい」
久美子は外国婦人に頭を下げて、さようなら、と言った。サヨナラと先方でも日本語で言ったが、この言葉がかなり外国人離れしているので、この人は日本に来てから相当期間滞在しているのだ、と想像した。
久美子は、残りの小径こみちを回って寺の外に出たが、軽い疲れを覚えていた。美しい絵をたっぷりと見せられた後の疲労に似ている。実際、出口の橋を渡ると、そこはもう、茶店や土産物屋などの並んでいる場所になっていた。こういう所に歩いて来ると、必ず一度は出て来たばかりの寺を振り返って見たくなる。
車は前よりも混み合って停まっていた。久美子が眼で捜しながら歩いていると、運転手が横あいから出て来た。
「車は、この先に置いてあります」
また元の道に戻った。渡月橋へ出るまで、舟を載せたトラックと行き遇った。向うの山の斜面に影が大きくい上がり、頂上だけ夕陽が射していた。
京都の街に入ると、久美子は、少し買物をしてみたくなった。
運転手は、どうせ順序だから、と言って、四条しじょう河原町かわらまちの方へ車を走らせた。
河原町まで来ると、その雑踏ざっとうは東京並みだった。運転手にそこまでの料金を払い、あとは独りで歩いた。
帰るのは明日の朝だったが、その前に、買物の見当をつけておきたかった。が、よく京都からの土産だと言って貰っている品と変わらない物ばかり並んでいた。
それでも、新京極しんきょうごくをひと廻りして三条通りに出た時は、一時間ぐらい歩いていたことになった。ホテルに戻った時、街には灯が点いていた。
「お帰りなさいませ」
ボーイが迎えた。
フロントに寄ってキイを受け取る時も、お帰りなさいませ、という挨拶だけだった。
果たして鈴木警部補の捜索は、ここまで伸びていない。
警部補には悪いと思ったが、今日と明日だけは、気儘を認めてもらうほかはなかった。もしかすると、あわてた警部補は、東京の自宅に電話しているかも知れない。従姉の夫から久美子への同行を頼まれたことだし、警部補も自分の立場で責任を感じているであろう。
だが、東京の母へ電話するのはまだ早かった。今、電話すると、折り返して鈴木警部補に報告しそうなので、後の方がいいのだ。
2022/10/18
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