~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-06)
エレベーターを待っていると、うしろから来た客が小さく声を上げた。
それが苔寺で写真を撮ってくれたフランス婦人だった。向うでも意外そうに眼を円くして久美子を見ていた。すぐ横に、あの時の日本人通訳が付いていることも変わりはなかった。
「あなたも、此処にお泊りですか?」
婦人は愕いた表情をつづけながら久美子にフランス語で訊いた。
「そうなんです」
外国人だから、このホテルに止まることは不思議ではないが、やはりちょっとした意外さだった。
「四階」
傍の日本人がエレベーターボーイに告げた。
「三階にお願いします」
ボーイはうなずいて3という印のボタンを押した。
外国婦人はそれを目敏く見て、
「三階?」
と久美子に確かめるように訊いた。彼女は微笑してうなずいた。
三階に停まった。
ドアが開いて、フロアに出る時、久美子は婦人に軽い挨拶をした。
部屋に帰ると、ほっとした。
出た留守に、ボーイが設備してくれたらしく、ベッドの一つはカバーがとられ、支度メ-クされてあった。窓にはカーテンが掛かっている。灯はスタンドだけだった。
久美子は、カーテンを引き、ブラインドを上げた。
外はれていたが、まだ微かな蒼味が空に残っていて、山の黒い線を描き分けていた。
山裾一帯に人家の灯が輝いている。すぐ下を走る電車も、自動車も、明かりだけが動いていた。
ソファのクッションに戻って、しばらく休んだ。音のしない静かなホテルなので気分は落ち着いたが、このままじっとして居る気持もなかった。
備え付けの大きなメニューを取った。もちろん、洋食ばかりで、食堂に行く気はしなかった。せっかく来た京都だし、東京で食べられない物が欲しかった。
思案しながら窓に映るたくさんな灯を見ている時、ドアに軽いノックが聞こえた。
2022/10/18
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