~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-02)
久美子は、枕許のサイドテーブルの上に乗っている電話機に気づいた。
やはり人の声が無性に聞きたかった。そうだ、添田はどうしているであろう。まだ、新聞社に残っているのではないだろうか。夜勤だと夜明けごろまで勤務するのだ、と彼は言っていた。
受話器を取った。ボーイの声がこたえる。ドアを遮断しても、声だけは自由に外と交通できるのが嬉しかった。
「東京を願います」
久美子は新聞社の番号を伝えた。
この時、廊下に跫音あしおとが起こった。それが次第にこの部屋に近づいて来る。一人ではなく、二人以上だった。
ドアにキイを掛て廻す音が隣で聞こえた。遅い客が入ったようである。男の声がしていたが、無論、言葉はわからない。
ボーイの靴音であろう、それだけがやがて廊下に出た。
── そうだ、村尾課長はどの部屋に泊まっているのだろうか。
このホテルは五階までである。五、六十室はたっぷりとあるだろう。
もし、村尾課長が偽名でなく本名で記帳していたら、フロントに訊いて部屋の番号を知りたいじゅらいだった。旅先のことである。
先はそうでもなかったが、こうホテルの中が静かにくると、電話でもかけてあげたいくらいな気持になったから妙だった。先方でも独りで寂しがってることだろうし、不意に声をかけたらきっとおどろくかも知れない。
しかし、なんといっても村尾氏が偽名で来ているのが久美子にそれを抑えさせた。
やはりこの分では、廊下かロビーで逢って、短い挨拶を交わすよりほかないようだ。
電話が鳴った。
独りで夜の部屋に居ると、電話のベルが狂暴なくらい高い。ぼんやりしているところを不意になったものだから、胸がどきりとしたくらいである。
「東京がお出になりました」
ボーイが伝えた。つづいて新聞社の交換台の女の声に変わった。
添田の名前を言うと、しばらくお待ちください、と言って声が引っ込んだ。
「あいにくと添田はもう帰っております」
と伝えた。
「そう」
少しがっかりした。
「何かお言づけがありましたら、伝えるように言いましょうか?」
添田のいる部屋につなぎそうだった。
「いえ、いいんです。では、いずれまた」
「そうですか、失礼しました」
交換台では、京都からと言ったので、夜のことだし、かなり丁寧に対応してくれた。
一度、東京の声を聞くと、今度は母に電話したくなった。最初に母に電話しないで添田にかけたのは、どのような気持からか、今になって初めてそれにそれに気が付くのだった。それに、添田が居ないと知って急に母の声を聞きたくなるのは、満たされないものを次の価値で埋めるような意識だといえそうである。
また電話機を取って東京を申し込んだ。
こうして独りで部屋で声を出しているのはたのしかった。
ふいに、軽いノックが聞こえた。が、それは隣の部屋だった。
忘恩装置がそれほど充分ではないとみえて、客の声が洩れて来る。声だけ聞いていると、中年の太い調子だった。ボーイが茶でも運んだようだった。やがて、ボーイだけの靴音が廊下に出た。
久美子は思わず部屋を見廻した。隣室に男客が一人入ったとなると、安全とは知っていても、無意識のうちに眼が部屋の構造を確かめた。
2022/10/21
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