~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-03)
二度目のベルが鳴った。
「もしもし」
電話口に出たのは母だった。この、もしもし、という声だけで母のはずんだ気持がわかった。局が、京都から、と告げたので久美子からだと判ったのであろう。
「久美子です」
「そう、まだ京都ね。あなたМホテルに居るの?」
それもホテルの交換台で母には判ったのである。
「ええ、そう」
「まあ、呆れたひとねえ。鈴木さん、御一緒じゃないんでしょ?」
果たして鈴木警部補は久美子居なくなったことを連絡している。
久美子は首をくすめ、歯の間から舌を覗かせた。
「鈴木さん、何かおっしゃって?」
彼女は小さな声で訊いた。
「何かおっしゃってじゃありませんよ。あなたが急に宿から居なくなったので、大騒ぎでしたよ。どうしたの、そんなことをして?」
「だって」
久美子は甘えた声になった。
「鈴木さんに、わたくし、見張りされているみたいですもの。窮屈で仕方がないわ」
「わがまま言ってるのね。はじめから、その約束で行ったんでしょ。すっぽかしたりなどして悪いわ」
「すみません」
久美子は謝った。
「で、鈴木さん、どうなすったかしら」
久美子にはそれも心配だった。
「仕方がないから、鈴木さんだけ、今夜の汽車で帰るとおっしゃってたわ。広い京都だから捜しようもないんですって」
「怒ってらしたかしら?」
「そりゃあ」
電話の母の声は、叱るというよりも、久美子から連絡があったので安心がはっきりと出ていた。
「平気ではいらっしゃらないようよ」
「わたくし、東京に帰ったら、鈴木さんのところに謝りに行きます」
「一体、どうしてそんな気持起こしたの?」
「一人で京都を見たかったんです。警察の方に見張られていちゃ、気持が沈んで、京都に来た気分にねれなかったの。だって折角来たんですもの、久美子ひとりだけで旅の気持を味わいたいんです」
「見物が主な目的で行ったのではないでしょ。手紙の方には逢えなかったそうね?」
それも鈴木警部補から報告があったのだ。
「ええ、三時間ばかり南禅寺でお待ちしたんですけれど。とうとう。見えませんでしたわ」
鈴木警部補の罪だ、と言いたかった。余計なお節介をして、あれ程一しょに来ないように止めておいたのに、約束を破って警部補が姿を見せたばかりに先方が怒って姿を見せなかったのだが、その説明は電話では出来なかった。
「どうしたのでしょうね」
「先方に都合が出来たんでしょう、きっと」
久美子は当たり障りのないことを言った。
「でも、手紙にあれほど書いてあったににね」
母は呑みこめないふうだった。その気持ちは無理もない、わざわざ久美子を京都にやらせたし、そのためには警部補を護衛に付けたのである。
久美子の顔を描いた笹島画伯のデッサンを手渡す、という手紙の申し込みの時から、母は久美子を京都にやらせる決心になっていた。
手紙の文面は普通ではなかったが、それを承知で京都に久美子をやらせたのは、母も何かを探りたかったからだ。
だから、久美子が山本千代子という手紙の主に逢えなかった結果に、母の声ははっきり落胆していた。
2022/10/22
Next