~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-04)
もしもし、いまここに、節子さんが来ていますよ」
「あら、節子姉さまが」
母の声は、その節子の声と交替した。
「久美子さん」
節子は、よくとおる声で久美子に呼びかけた。
「お姉さま、来てらしったのね」
久美子は自然と唇に微笑が出た。
「ええ、あなたのことが心配でしたから」
心配というのは、無論、京都行の首尾を指しているのである。
「残念だったわね」
節子の方から言った。
「ええ、お逢い出来ませんでしたの」
「仕方がないわ。・・・でも、京都はいかが?」
やはり母より若いだけに、節子はいつまでもそのことにこだわらなかった。
「とっても素敵。久美子、今日、南禅寺から苔寺こけでらのほうに廻りましたわ。はじめただったせいか、とても印象が強かったわ」
「よかったわ」
と節子は言ってくれた。
「独りでのうのうとなさったのね」
その言葉には、暗に鈴木警部補をまいた久美子へのたしなめがあった。警部補を護衛につけたのは、彼女の夫の入れ知恵なのだ。
「すみません」
久美子は節子に謝った。いや、節子を通じて、その夫の芦村亮一りょういちに詫びた気持だった。
「いえ、それは構わないのよ。あなたの気持だって分かるわ」
節子は慰めた。
「この間、わたくしも奈良に行ったけれど、今度、久美ちゃんとゆっくり、京都、奈良を廻りましょうね」
そうだ、節子が奈良を廻った時に、古い寺の芳名帳から、亡き父に似た筆蹟を発見したのだった。
「嬉しいわ」
と久美子ははずんだ声で言った。
「お姉さまは、古いお寺だの、仏さまだの、お詳しいのね。久美子、ぜひ、お姉さまのお供をして、実地見学したいわ」
「それほど物識りではないけれど、久美ちゃんとなら、ほんとに行きたいわ。今度の京都は早く切り上げて帰ってらしてね」
「ええ、明日、夕方には必ず帰ります」
「独りでホテルなどに居て、寂しくない?」
「少し寂しいけれどみ、でも、やっぱり一晩ぐらいだと愉しいんです」
「そう? 知った方がなくて心細くないかしら?」
その言葉で、久美子は危うく村尾芳生氏のことを口に出すところだった。今度もそれを抑えたのは、村尾氏がフロントでにせの名前を使ったことこらである。その人物が村尾氏に間違いはないと判っても、折角、隠れている村尾氏に悪いような気がした。
「いま、お母さまに替わるわ。じゃ、元気でね」
「ありがとう」
母の声に替わった。
「もしもし、べつに言うことはないわ。いま、節子さんが言ったように、早く帰っていらっしゃい、くれぐれも気をつけるんですよ」
「そう。お母さま、御心配なさることないわ。ちゃんと無事に、京都のお土産みやげ を持って帰りますから」
「やっぱりあなたの顔を見るまでは落ち着かないのよ。でも、電話で声を聞いたから、いくらか安心したわ」
「そう。やはりかけてよかったのね。では、おやすみなさい」
「おやすみ」
東京の声が消えた。
2022/10/23
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