~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-05)
電話が済んで、久美子は言い忘れたことに気づいた。
電話のときはには、ぜひ、それを言いたかったのだが、時間がなかったし、その言葉を挿む余裕がなかった。
今日、苔寺に行った話である。印象が強かったし、それをすぐに伝えたかった。苔の美しさと、庭のたたずまいを、自分の口から母に描写してやりたかった。それが出来なかったのが、少々心残りだった。
東京に帰ったら、ゆっくし話せるのだが、やはりじかに受けた強い印象は、時を移さずに言った方がいいのだ。
時計を見ると、十一時近かった。妙に眼がえている。やはり環境が違ったせいか、気持がたかぶっているのだった。
久美子は、スーツケースから何冊かの本を取り出した。寝る前には本を読む癖があって、そのために持ち出したのだが、読みかけの本の二、三ページも進まないうちに、もう活字について行けなくなった。本を読む気持でさえできていないのだ。
ホテルは相変わらず少しも音がしない。
隣に入った客は何をしているのか、壁越しにも音がなかった。もう、ベッドにやすんでいるのかも知れない。
困ったことになった、と思った。なぜ、こう気持が落ち着かないのか、睡眠剤でも持って来ればよかった、と思ったくらいである。
こういうことなら、夕方、フランス人夫婦の招待に応じていればよかったと思う。きっと、いろいろな話が出来たの違いない。食事も自分ひとりでったような単調なももではなく、愉しいテーブルになったかも知れないのだ。
気骨きぼねは折れたことだろうが、馴れない人と食事をした疲れが睡気を早く誘ったかもしれない。考えてみると、今日は、高台寺こうだいじ横の旅館を出てからずっとひとりきりなのだ。ひとりで居たことが、かえっていまだに緊張をほどかないでいる。
しかし、このまま起きていても際限きりがなかった。その支度になれば睡れるだろうと思って、スーツケースから自分のパジャマを取り出した。これだけがこの部屋で自分の家庭の空気をよみがえらせていた。
このとき、突然、電話の鳴ったのには愕いた。
久美子は、すぐ受話器に手が伸びなかった。時間が時間だし、このホテルに電話をかけて寄越す人の心当たりもなかった。こちらから電話で話しかける分には平気だったが、得体の知れない対手あいてから呼びかけられるのはこわかった。
電話のベルは必要以上に大きな音を立てている。やっと久美子は、受話器を取って耳に当てた。
すぐに自分の声が出ない。自然と先方の声を待って対手を確かめる気になった。
「もしもし」
男の声だが、それも中年以上の人を想像させた。低い、渋味のある声であった。
「・・・はい」
彼女は怕々こわごわと返辞をした。がすぐに先方の声が続くかと思われたが、そうではなかった。こちらの返辞を聞いてから声が消えたのだから妙だった。
しかし、電話が切れたのではない。その音はないのだ。
明らかに、先方からは声を出すのを控えているのだ。耳を澄ませたが、受話器には背景からくる音もない。
久美子は、その電話が外線からではなく、このホテルの中からかかっていることに気づいた。外線からだと、交換台がそう告げる筈である。
受話器の奥は、いま、久美子が身を置いて居る世界と同じように静寂なのである。
「もしもし」
久美子は、たえきれなくなって声を出した。自分が言わないと、先方はいつまでも声を聞かせてくれない。
が、不意に、そこに、音がツーンと入って来た。電話が切れた時の耳に強い金属音だった。
久美子ははじめて受話器を置いた。
胸が騒いでいる。
間違った電話かも知れない、と思ったが、それを先方がこちらに確かめなかったのは妙だった。もしかすると、かけた対手は男の声の応答を期待したのだが、久美子が出たので逸早く間違いを察して切ったのかも知れない。もしも、それだったら、断りなく切ったのは失礼な話である。
久美子は、そう考えようとした。だが、動悸はまだ静まらないで、胸の中に鳴っていた。
2022/10/24
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