~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-06)
久美子は消すつもりだったスタンドをそのままにして、枕許だけ明かるくした。本を読もうとしたが、もちろん活字は眼に入らなかった。
スタンドから遠のいている部分は暗かった。ボーイが窓に丁寧にカーテンを閉めて、客の睡りのために快い闇を作ってくれている。が、明かりだけが頼りになっている今は、その暗い部屋の隅を見るのにさえおびえた。
ベルが不意に鳴った。二度目だ。
久美子は、電話機を見つめた。受話器が音で震動しているようにみえた。それほど音は真夜中のこの部屋にけたたましい。
今度は、急いで受話器を耳に当てた。
「もしもし」
久美子は、襲撃者に立ち向かっているような気持だった。
「もしもし」
これは向うの声だ。男の、しかも同じ落ち着いた声だった。
「そちらは三原みはらさんですか?」
その声は訊いた。
「いいえ、違います」
久美子は、やはり電話の間違いだと知った。切るつもりでいると、先方の声はつづいた。
「失礼ですが、部屋番号は312号室ではございませんか?」
声は丁寧だった。
「いいえ、違います」
こちらの名前も、部屋番号も告げる必要はない。違うということだけで先方は納得する筈なのだ。
が、妙なことに、対手はおし黙っている。すぐ切るのでもなかった。
久美子は先に受話器を置くことにした。みみから離そうとすると、受話器からまた声が洩れて来た。
「失礼しました」
随分、をおいた詫びである。
「いいえ」
完全に受話器を置いてから、久美子は肩を毛布の下に入れた。
電話は二度鳴っている。最初は、もしもし、と言っただけで、そのまま切れ、また信号が鳴ったのである。
っその具合から察すると、先方はどうやら目的の部屋番号を確実に知っていないようである。最初のベルを鳴らしてすぐに分かったのは、先方が番号に自信がなかったせいであろう。だが、そrで諦め切れずにもう一度、312のナンバーに指を廻したのだろうか。それが何かの間違いで二度ともこの室にかかった。── 久美子にはそう考えられる。
しかし、ただの電話の間違いにしては念入りなところもあった。二度かけ直して来たのもそうだったが、こちらがはっきり違うと告げても、先方ではしばらく声を跡絶とだえさせていたのである。あたかも、電話線の向うからこちらの部屋を窺っているような耳さえ感じるのだ。
久美子は急いでスタンドを消した。それから、出来るだけ早く睡りことに務めた。
2022/10/25
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