~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-07)
久美子は、また胸が騒ぎはじめた。じっとベッドの中にすくんだようになって、耳だけを澄ませた。騒ぎの声は消えるかと思うと、そうではなく、断続的だが、あとのほうが尻上がりに高くなるのである。
絨毯じゅうたんを敷いた廊下なのに、跫音は高いのだ。
このとき、耳のすぐ近くで別の音が起こった。
隣室なのだ。防音装置が不完全なせいか、寝台からね起きる音がはっきりと聞こえた。
久美子が息を殺していると、隣からは声が聞こえた。壁に隔てられているので、よく聞こえなかったが、フロントを呼んでいる声だった。遅く着いた客の声である。
跫音が動いているのは、隣の客が部屋を歩いているのだった。それが急に止んだ。椅子にでも腰を下したらしい。
が、直ぐに って、入口の方へ跫音が移った。これはドアのキイを外すためだとは、やがてボーイが隣の部屋の前でノックしたことで判った。ドアはすぐに開いたのである。
久美子は、耳に神経を集めた。
お呼びでございますか、とでもボーイが言っているらしい。
「どうしたんだね?」
これは、はっきりと言葉が聞こえた。少し声が高いのである。ボーイの声は低いので、よく判らない。ぼそぼそと何か告げている。
「医者は呼んでいるのか?」
と隣の声が言った。
この言葉で、久美子ははっとなった。急病人か、と先に思ったが、すぐに頭にひらめいたのは、夢の中で聞いたパンクの音と、地面に微かに起こった音とだった。
つづいて男の声は何か言っていたが、これは、ボーイと一緒に廊下に出てからもつづいていた。
もう、はっきりと何かが起こったことが判った。
久美子は、またスタンドを点けた。ベッドから起き上がって、スリッパを穿いたが、どう出来るというのではなかった。椅子に腰掛てみたが、落ち着かない。
遠くの騒ぎがまだ続いているのである。声と跫音とが混じっていた。跫音は、あとからほかの人間が参加したように階段の方で動いている。
ドアまで行ってみたが、さすがにキイを廻して開く勇気はなかった。
急病人ではないのだ。明らかに不意の事故が起こっている。
睡っている間に聞いたのは、ピストルの音ではなかろうか ──。この考えは、自分で恐怖を起させた。唇が白くなった思いである。
じっとして居られなかった。騒動に気づいたのか、すぐ前の方の部屋からもドアの開く音がする。ずっと端の方からも人が歩いて、この部屋の前を大急ぎで通った。
久美子は、すbはやくパジャマからスーツに着替えた。
小さい時に、近所に火事が起こったことがある。母が睡っている彼女を起こして、万一にと着物に着替えさせたものだ。その時のふるえと、今の場合とは似ていた。
電話機が眼に付いた。
すぐ廊下に出るのははしたない、と気付いて、電話機を取り上げた。耳には、ジージー、という通話中の音しか聞こえない。ほかの客が同じ考えで、フロントに事態を問い合わせているに違いなかった。
久美子は、思い切って鍵を廻した。把手とってに手をかけて、ドアを細目に開いた。瞬間、騒ぎの声が高くなった。
それは、この廊下の続きではなかった。中央にエレベーターの口と、その横に階段とがある。久美子の部屋は、その階段の傍から三つ目だった。騒ぎの声は、その階段の上から聞こえていたのである。階下したから上がって来る跫音とばかり思っていたが、実は、四階へ上がって行くそれだったのだ。廊下には灯が点いている。
久美子は、寝巻を着た客たちが四階を目指して上がって行くのを目撃した。
2022/10/26
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