~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-08)
人びとが集まっているのは、四階の階段を上がって、廊下を右側に殆ど突き当り近くだった。部屋の上には、405号の標識が出ている。
うす暗い廊下の電燈に下で、部屋の近くに集まっている人間は、十二、三人はたっぷりと居た。殆どが男たちで、ホテルの寝巻を着ていた。婦人客も居たが、これも寝間着姿である。
久美子がスーツで来ていたので、ホテルの者と間違えて、
「どうしたんですか?」
と訊く客も居た。
ホテルの者ではではない、と言うと、
「あ、お客さんですか。失礼しました」
と質問し客は照れた。
人びとは、みんな銃声を聞いていた。低いささやきが、ドアを見つめて立っている客同士の中で交された。
「びっくりしました。いきなり大きな音がしたんですからね」
「たしかにピストルの音でしょうね?」
「それは絶対です」
「人殺しですね。犯人はどうしたんでしょうか?」
ども顔にも不安と好奇心とが出ていた。
405号室は、ドアをしっかり閉めている。中からは音一つ洩れていなかった。それがかえって無気味さを見る者に誘った。
こも四階の客は、殆ど廊下に出ている。各室のドアの前に泊り客が立って、様子を見ているのだだった。現に、その隣の404号室は、ドアが半開きになって、婦人客が顔を半分覗かせている。が、向う隣の406号室は、問題の405号室と同じように戸を閉めていた。この部屋からは誰も覗いていないが、内部なかで息を詰めているに違いなかった。
急に405号室のドアが開いた。ボーイが出て来た。人びとの眼は一斉にそれに集まったが、ボーイが両手に抱えている洗面器の中を見て、一瞬に低いうめきが起こった。洗面器には真赤な水が張られてあった。
血を見て、集まった人びとは、はじめて生々しい現実を確かめたのであった。
「どうしたのですか?」
足早に廊下を行こうとするボーイを止めて訊く者がある。
「ああ、ちょっと」
ボーイは顔を強張こわばらせていた。
「この部屋に客が射たれたんだね。そうだろう?」
ボーイは黙ってうなずいた。
「死んだのか?」
人びとに取り巻かれて、ボーイは歩くことが出来なかった。
「ど、どうぞ、騒がないで下さい」
ボーイはどもりながら言った。
「騒ぐなって、君、夜中に銃声だろう。愕くのが当り前だ」
「同じホテルに泊まって、ピストルが鳴ったんだから、これは誰でもびっくりして跳び起きて来る。じっとしていられないよ。犯人はどうした?」
「ご心配かけてすみません。射った人間は居なくなりました」
げたのか?」
「はあ」
「君、その犯人の姿を見たのかい?」
「いいえ」
射った人間が居ないと判って、人びとの顔には安堵あんどが出て来た。当然、予想したことだが、はっきりそう聞いて、やはり不安が去ったのだ。
「で、死んでるのかい?」
ボーイの手に持った洗面器の中の血が水の様に揺れている。
「いや、息はあります」
この息があるという言葉で、射たれた人間が重傷だということが判った。
「射れたのは誰だ? 男の客かい? 女の客かね?」
「男の方です」
ボーイはいらいらして、やっと人びとの輪から脱出をはじめた。
「すみません。そこを通して下さい」
洗面器に血を持っているのだから、当然、人びとは道を開けた。ボーイは大股で階段を降りて行く。
「東京の人で、男と言ったな」
ボーイの残した言葉を手がかりに、また囁きが客の間で交された。」
2022/10/27
Next