~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (15-09)
入れ違いに、二人のボーイと、黒い服を着た事務員とが階段を駆け上がって来た。
「すみません。そこをどいて下さい」
三人の従業員は、405号室に飛び込んだ。無論、ドアは閉まったが、最初に出て来たのは事務員の方だっ。いつもはきれいに手入れしているに違いない髪が額に乱れかかっていた。
「君」
野次馬やじうまは事務員を捉えた。
「どんな様子だ?」
事務員は蒼い顔をして自分を取り巻いた人びと眺めた。
「静かにして下さい。夜中ですから、どうぞ、お引き取り下さい」
引き取れと言ったって、君、夜中にピストルが鳴ったんだろう、普通のことではない。われわれ同宿者として不安なのは当然だ。説明してくれ給え」
そうだと、同調する客が居た。
「お客さまが誰かに射たれてたおれたのです。ピストルは、窓の外側から内部をねらって発射されました。しかし、犯人は遁げています」
これは最初の明確な説明であった。
「警察はどうした?」
「もう、すぐ来ると思います。早速、電話で連絡しましたから」
「射れた人は、生命の点は大丈夫かね?」
「大丈夫だろうと思います。いま、応急の処置をわれわれで取敢えずやっておりますから」
「原因は何だね?」
「それは、われわれでは判りません」
「君、君」
と別な男が訊いた。
「射たれた人の名前は、何と言うんだね? いや、ぼくが知ってる人かもわからなかから心配なんだ」
事務員はちょっと迷ったが、
「吉岡さんというんです。宿泊人名簿には、そう書いてあります」
と呟くように言った。
久美子は、その言葉を聞いた時、顔色を変えた。
吉岡。──
それは村尾課長ではないか。フロントに記帳した名前がそれなのだ。久美子の眼にはまだ、航空会社の荷札の下がったスーツケースと一緒に、えれべーたーの中に乗り込んだ村尾芳生氏の後ろ姿が残っている。
茫然としていると、
「もう、このへんで御勘弁下さい」
と事務員が皆に言っていた。
「この隣の部屋に、フランス人のお客さまがいらっしゃるんです。心配するといけませんから、どうぞ、皆さま、お引き取り下さい」
久美子は、また口の中で叫びそうになった。
さっきからドアを閉めている406号室は、久美子が苔寺で逢ったのをきっかけとして、自分を食事に招待しようとしたフランス人夫婦らしいのである。
人びとは、ようやく部屋の前から離れはじめた。久美子が茫然としてその後から階段を降りた時、表に走って来るサイレンの音を聞いた。警察官と救急車とが到着したらしい。
── ピストルで射たれたのは、村尾芳生氏だった。
急なことだし、思ってもみない事態になった。久美子は、歩いている脚がふるえそうになった。
その時だった。
自分の前を歩いているパジャマ姿の背の高い男が。居室のドアの中に入った。この人も今の騒ぎを見物に来た客なのだが、久美子がはっと息を呑んだのは、ちらりと廊下の電灯に映ったその横顔が、以前会ったことのある滝良精たきりょうせい氏であったからだ。
しかも、これが自分の部屋の隣に遅く着いた客だった。
2022/10/27
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